招かれざる騎士               ソンブレロ         一人暮らしの部屋。     もしくはリビング。          中央にテーブル。     女が電話で話している。     傍らにはパイケーキを作るためのボウル、泡だて器、     ケーキ作りの本、ミルクピッチャーなどがある。          作業の途中で電話が掛かってきたという設定。          夜。     以降はすべて女のセリフ。 女 うん……うん……。 そうね、せっかくだけど、今度帰った時にでもまたゆっくりとね。  いつって、そうね……。  その気になればいつでも帰れるけど、どうせなら泊まっていきたいから、次に連休を  もらったらね。  来月くらいかな。  うん……。  うん、で、今日もパパはまだ仕事なの?  そうなのね……。 金曜日くらい早く帰ってくればいいのにね。  マヤ姉さんが来てることは知ってるの?  そう、知ってれば早く帰ってくるかもしれないのに。  そうなの?   大変ね、パパも。  もちろん待たされるママの方もね。  え、うん……うん……。  体にだけは気を付けるように言ってね。  うん、じゃあ……。  え。  あ、マヤ姉さんが?  あ、そう……。     間。    もしもし……。  あ、マヤ姉さん?  うん、元気よ。  どうしたの?   え、仕事?  まあ相変わらずよ。  今日は珍しく早く帰れたけど。  うん、そうね、さっきもママに言ったけど、次に連休をもらったら帰るわ。  そうね、来月くらいかな。  大丈夫よ、忙しいのは慣れてるし。  世間の人たちが遊んでいるときに働くっていうのもね。  ありがとう、マヤ姉さんも元気でね。  え。  どうしたの、急に小さい声で。  え、なに?  なにを考えておいたって……?  プレゼント……?  ああ、ママたちのね。  ええ、もちろん。  マヤ姉さんは?  うん、どんな?  へえ、いいじゃない?  そう言えばいつだったかダイニングセットをプレゼントした時もマヤ姉さんのお店  で一緒に選んだっけね。  ところでそのソファーとコーヒーテーブルってママのリクエストなの?  あ、そう、内緒なの?  サプライズ的な?  ふふふ。  あ、私?  一応考えたけど、せっかくだから仕事上の特権を生かさせてもらおうかと思ってて  ね。  そう、パッケージツアーの招待券で考えたの。  いまね、ちょっと特別なツアーがあるのよ。  結婚記念に合わせた企画でね、三十年とか四十年の夫婦だけのクルーズツアーなの。  うん、そう、ママたちは三十五年だけど、そこは、だから特権を生かしてね。  コースもいろいろあってね、短いのは半日からあるし、長いのはもう六ヶ月とかね、  それ以上のもあるわ。  それでね、じつは催行人数に達しないツアーって結構あるのね。  ふつうはそのまま流れちゃうんだけど、この手のツアーってメモリアルな要素があ  る性格からどうしても流したくないっていう参加者が多いのよ。  そういう要望に応えるために補充要員を内々で募ったりするの。  つまり、相当安くしてね。  半分は人助けなのよ。  そうなの、人助けにもなるというプレゼント。  一石二鳥でしょ?  あ、そう?  すごくいい?  じゃあこれにしちゃう?  え、いいなぁって……。  ふふ、マヤ姉さん羨ましがりなんだから。  じゃあ、日程はあとで二人で決めてもらうとして、期間はどれくらいがいいと思  う?  まあ、そうよね、パパも仕事が忙しいからね。  せいぜい一週間くらいがいいところかしらね。  パンフレット送ろうか?  うぅん、手間なんかじゃないわ。  じゃあ明日事務所からマヤ姉さんの家に送っておくわ。  いいえ、どういたしまして。  うん、じゃあ……。  お兄さんによろしくね。  あ、お兄さん、元気?  あ、そう、帰って来てるの?  いつまで?  うん……うん……。  へえ、よかったじゃない。  うん、ありがとう、じゃあ……。  なに?  え、打ち合わせって……。  え、これから?  なにもそんな……。  明日パンフレットを送るから、それ見て考えたらいいじゃない?  そうよ、いくつもコースがあるの。  島巡りだとか、大きな都市ごとに寄港して夜の街を楽しむとかね。  急ぐことはないし、ゆっくり考えましょうよ。  うん……うん……。  じゃあ……。  え、お母さんが?  また?  ああ、はい。     間。  もしもし……。  え、べつにどうっていうこともないわ。  ただの世間話よ。  そう、元気でやってるっていうくらいの。ヒソヒソだなんて、そんな……。  え、なに、聞こえない?  どうしたの、急に小さい声になっちゃって。  え、聞こえないってば。  マヤ姉さんのなに?  お祝い?  お祝いってなんの?  え、また聞こえなかった。  誕生日?  じゃなくて?  え、ああ、そうか、結婚記念日ね……。  でもそれは夫婦で祝うものでしょう?  うん……うん……。  ああ、そうだったわね、マヤ姉さんたちは忙しかったからね。  うん……うん……。  そうね、お兄さんもこっちに帰って来られた時間も短かったしね。  かわいそうだったわね、式も簡単に済ませちゃったし、旅行にも行けなかったしね。  なるほどね、その分のお祝いをしてあげたいわね。  で、なにを贈ろうとかって決めてるの?  え?  なにがいいかって、そうね……。  うーん、なんだろ。  急に言われてもね……。  じゃあドレッサーなんてどう?  ライティング式の。  確か、マヤ姉さん欲しいって言ってたわ。  それに家具だったらマヤ姉さんのお店で本人に選んでもらえるしね。  え、駄目って、どうして?  あ、内緒にしたいの?  ふふふ。  え、うぅん、ママらしいなと思って。  じゃあどうしよう……?  旅行の招待券なんてどう?  それなら私も協力出来るし。  ちょっと待ってね。  ちょうど今ね……。        女、足元のバッグからパンフレットを数冊取り出す。            ページを捲りながら。     もしもし……。  あのね、たとえばハネムーンだとコースがたくさんあるからそこに入れてもらう  手もあるわ。  え、うん、まあ、厳密に言えばマヤ姉さんたちはハネムーンじゃないけどね。  いいのよ、まだ一年なんだし。  大丈夫よ、そういうのはなんとでも出来ちゃうから。  じつはハネムーンのコースってキャンセルがけっこうあるのね。  どうしてって、だって、ほら、一般の申込と違って半年とか、もっと前から予約  するわけじゃない?  だから、いろいろあるのよ。  それで、その空いた枠に組み入れると、とってもお得に行けるの。  驚くほど格安でね。  うん……うん……。  ママもいいと思うでしょ?  あ、そうだ、船旅なんてどう?  楽しそうだと思わない?  ね、そうでしょ?  そうなの、船も豪華な客船だって選べるしね。  ところでママって船酔いとかって大丈夫だったっけ?  あ、そう。  で、パパはどうかな?  あ、わからない?  そう、どうなんだろ……。  え、うん、いまは関係ないけどね。  マヤ姉さんの話よね。  そうね、お兄さんの仕事もあるから一週間あたりがね。  そう、ちょうどね。  大船に乗って悠々と。  気持ちいいわよ、きっと。  もうこの際だから行っちゃう?  一緒に。  なんて……。  うぅん、なんでもない、冗談。  じゃあパンフレットを送っておくから届いたら見てね。  あ、ところでマヤ姉さんって今夜泊まるんでしょ?  で、いつ帰るの?  そう、明日か明後日か……。  じゃあ念のためパンフレットは明後日送るね。  え、だってサプライズ的なプレゼントにしたいんでしょ?  マヤ姉さんって勘が鋭い方だからさ。  ややこしいことになると嫌だからとにかく明後日以降に送るわ。  うん、じゃあ。そういうことで……。  え、なんのこと?  ああ、あのエプロン。  うん、気に入ってるわ。  ありがとうね。  うん、時々使ってるわよ。  まああんまり手の込んだ料理なんてしないんだけどね。  この前友達が来たときに使ったわ。  褒められたわよ。  かわいいって。  え、違うわよ、女性よ。  女の友達。  じつはいまもしてるの。  あのエプロン。  ふふふ。  うん、たまにはちょっとね。  え、誰も来ないわよ。  自分のためによ。  なによ。  べつに寂しくないわよ。  毎日忙しいし、それなりに充実してるわ。  え、なに、どうなのって?  なにが?  またそういう話?  いいわよ、もう、なによ。  自分で探すから。  どうやってって、そんな……。  とにかくママの手は煩わせないから。  え、なに、なんのこと?  この間の人?  なにそれ、この間の人って。  え、ああ、あの人ね。  あの准教授さんがどうだっていうの?  なに、どう思うって。  断ってって言ってあったでしょ?  ママも断ったって言ってたじゃない?   違うの?  じゃあもういいじゃない。  なんなのよ今更。  え、どういうこと?  ないわよ、もう一度会う気なんて。  ねえ、もしかしてあの人、またなにか言ってきたの?  そう……。  それならいいけど。  もしなにか言ってきても取り合わないで  よ。  お願いだからね。  ね、もう変な話蒸し返さないでね。  じゃあとりあえずマヤ姉さんたちの件はそれでいいわね?  パンフレット見て考えてね。   うん、じゃあ……。  え、なに?  どうしたの?  え、マヤ姉さんが?  また?  なによ、もう……。  いや、いいけど。  はいはい。     間。  はい、もしもし。  どうしたの?  うん……うん……。  おみやげ?  私に?  あ、そう、それはありがとう。  え、いまから?  いや、べつに用事があるわけじゃないけど。   でも今夜じゃなくてもね。  ママに預けておいてくれればさ……。  特に保存が利かないってわけじゃないんでしょ?  え、利かないの?  ケーキ?  なにそれ、どういうこと?  そりゃまあ好きだけど……。  今日はいいわ。  せっかくだけど私の分はマヤ姉さんかママが食べてくれて構わないわ。  ホール?  なにが?  私の分がまるまるホールケーキなの?  え、どうして?  誕生日って、もう過ぎたじゃない。  うん……うん……。  ああ、そうか、そうだったわね。  え、じゃああれからずっと予約待ちだったわけ?  へえ、あのお店すごい人気だからね。  でもさっきはなにも言ってなかったじゃない?  忘れてたって、ずいぶんね。  って言うか、マヤ姉さんらしくないわね。  じゃあ明日にしようかしら?  仕事早く切り上げて行くから。  マヤ姉さん、明日もいるでしょ?  え、帰っちゃうの?  あ、そう、まあ、でもいつでも会えるしね。  うん……うん……。  え、お兄さんが?  そうなの?  知らなかった。  いるの?  いまそこに。  なによ、もう、なにも言わないんだから。  うん……うん……。  そうね、お兄さんにはずいぶん会ってなかったものね。  どうしようかな……。  でもやっぱりやめておくわ。  悪いけど。  じつはいままさにケーキを作ろうと思っていたところなの。  って言うか、作ってる最中なの。  パイケーキだけどね。  うん、蜂蜜のレモンパイ。  え、うぅん、誰も来ないわ。  一人で食べるの。  そう、一人で。  うん、まあ時々ね。  気が向いたときに。  なにが?  べつに……。  そんなことないわ。  むしろ気楽でいいくらい。  ちょっとなに、マヤ姉さんまで。  え、だってママもいま同じことを……。  いくら親子だからって……。  もしかして示し合わせてないよね?  え、だからさっきの話。  だから、その、一人で寂しくないかってことと、あと、ほら、プレゼント。  そう、さっきの。  ママたちの旅行の……。  あ、うぅん、なんでもない、ただの勘違いみたい。  そう、私の方のね。  偶発的勘違い。  え、なに、私が?  べつに怒ってないよ。  こちらこそごめんね。  せっかくのケーキを直接受け取れなくてね。  うん、ありがとうね。  じゃあお兄さんによろしくね。  あ、いるんだもんね、お兄さん。  うん、よろしく。  え、お兄さんと?  そうね、久しぶりだし、じゃあちょっとだけ代わってもらおうかしら?  え?  なに?  音?  いつ、いま?  なんの音?  そう?  どんな?  ブーンって?  ああ、それならさっきから聞こえてたわ。  いまはじめて聞こえた?  きっと電話のせいじゃない?  ほらまた。  いまの聞こえたでしょ?  ブーンって音。  そうでしょ、電話よね?  あ、また……。       女、ふと耳元に妙な気配を感じる。     振り向いた瞬間、何かを目にし、驚いて思わず小さく叫ぶ。       女、受話器を持ったまま姿勢を低くして飛び去った方向を目で追っている。     しばしの沈黙。       なに、いまの。  やだ。  あ、もしもし、もしもし……。  ああ、マヤ姉さん、ごめんなさいね。  うん、大丈夫、なんかね、黒い虫みたいなのが耳元で大きな羽音をたててね。  うん、黒くて丸いのが……。  嫌ね、窓は閉めてたはずだけど……。  うん、相変わらず虫は駄目ね。  あ、向こうで旋回してるわ。  蜂みたい。  うん、大きな蜂。  あ、やだ、また来た。  来た、来た、来た!     女、受話器を持ったまま身をすくめる。  もしもし……。  あれ、ちょっと……。  もしもし、マヤ姉さん?  もしもし、もしもし……。  あ、お兄さん……。  こんばんは。  ええ、お久しぶり。  そう、ちょっと困っちゃってるの。  ええ、大きな蜂がね……。  どんなって……。  えーっとね、黒くて、丸くて……。  え、ライト?  部屋の?  消すって、明かりを?  うん……うん……。  ああ、明かりに引き寄せられてってことね。  そうね、わかったわ、じゃあ一旦消してみる。    女、受話器を置いて消灯させるために上手(もしくは下手) に去る。    消灯。    女、上手(もしくは下手)から戻り、受話器を手に取る。  もしもし……。  うん、明かりは消したし、窓も開けて来たわ。  ええ、そうね、うまくいってほしいわ。  ごめんなさい、久しぶりにお話するのにこんな……。  でもお兄さんがいてくれてよかった。  いえ、本当よ。  今日はごめんなさい。  せっかくケーキを買ってきてくれたのに顔を出さなかった罰ね。  私ね、虫だけは弱いの。  そう、マヤ姉さんもでしょ?  うちではパパ以外はみんな虫が苦手なの。  うぅん、バッタくらいなら平気だけど、家の中に入ってくるのが特に駄目なの。  あ!  あ、また。  ええ、また羽根の音。  え、どこかはわからないわ。  わからないの。  だって真っ暗なんだもの。  見えないから余計に気持ち悪い。  嫌ね、音だけって。  ああ、不気味。  ねえ、お兄さん、ねえ。  やっぱり明かり点けてもいい?  ねえ?  もしもし……?  あ、お兄さん。  電気を……。  いい?  うん、暗いよりいいものね。    女、受話器を置き、身を低くして上手(もしくは下手)へ去る。    点灯。    女、周囲を見渡しながら戻る。  もしもし、とりあえず点けたわ。  いま、明るくなった。  わ!     女、受話器を持ったまま身をすくめる。  もしもし、もしもし……。  あのね、増えたの蜂が。  さっきの蜂が二匹になっちゃったの。  やっぱり明かりのせいなの?  消した方がいい?  また消す?  ねえ、もしもし、お兄さん?  もしもし、もしもし……。     間。  あ、お兄さん。  出来れば電話口から離れないでね。  え、大きさ?  そうね、親指の先くらいかな……。  え、オレンジ色のなに?  背中が?  よくわからないけど、そう言われればそんな気もするけど……。  それがどうかしたの?  もしもし、もしもし……。  もしもし、お兄さん?  あ、もしもし、どうしたの?  え、クマ?  なに?   クマミツバチっていうのかもしれないの?  そう、でもそれはいまどうでもいいわ。  クマでもヤギでも。  とにかく追っ払えればなんでも。  え、うん……うん……。  そうね、確かに、相手がなにかによって対処方法も違うわよね。  夜行性なの?  へえ、都会でも時々……?  お兄さん、そういうの詳しいの?  え、来ないかって、そちらに?  一時避難ってこと?  そうね、そうしたいわね。  でもこのままここを離れるわけにもいかないじゃない?  それにいまパイケーキを作りかけだし……。  まあパイケーキのほうはこの際どうだっていいけど。  そうよ、蜂蜜のパイケーキ。  え、誰かって、誰のためでもないわ。  自分で食べるためよ。  そりゃそうでしょうね。  一人で食べるよりはみんなでね。  あ、お兄さん食べたいの?    ああ、ママやマヤ姉さんがね。  え、ぜひ食べたいって?  そう言ってるの?  誰が?  マヤ姉さんが?  二人とも?  困ったわね……。  じゃあ、もしよかったら私に買ってくれたケーキをおすそ分けしますって伝えて  もらおうかしら。  あ、うぅん、それも悪いかな、せっかく私のために買ってくれたのにね。  どう思う?  うん……うん……。  そうね、せっかくだし、やっぱり私が頂かなきゃね。  え、ええ、蜂の姿はいまは見えないわ。  出ていったのかしら……。  そうね、もう少しこのまま様子をみてみるわ。  ごめんなさいね、虫が飛び回ってるくらいで大騒ぎしちゃってね。  お兄さん、明日はお仕事は?  そう、じゃあごゆっくり。  しばらくはこちらの勤務先に落ち着けそう?  そう、それはよかった。  ええ、近いうちに。  じゃあまた。  はい……はい……。  どうもありがとう。  え、あ、そうね、戸締りね。  ええ、忘れずに窓は閉めておくわ。  はい、じゃあ……。       女、受話器を置く。          沈黙。  やれやれ……。     女、ボウルの中の材料を泡立て器を使って撹拌する。  なんなの?  まったく。  なんなのよ?  みんなで。  どうしちゃったの?  今日は一体。  パイケーキを一人だけで食べておいしい?  パイケーキを誰かのために作ってあげたくない?  って、なんなの?  そりゃ誰だってそうしたいでしょうよ。  そりゃ私だって……。  それなのになんなの?  とやかく、とやかく……。  お兄さんまで。     女、ふと手を止める。  そうだった。  忘れないうちにね……。    女、上手(もしくは下手)に去る。    静寂。     やがて、女、血相を変えて戻る。  やだやだ、もう。       女、やや錯乱気味に右往左往する。  気持ち悪い。  あ。     女、受話器を取り、ダイアル(もしくはプッシュ)する。  もしもし……。  あ、ママ、私よ。  いやになっちゃう。  え、蜂よ、蜂。  いっぱいいるの。  キッチンに!  どうしよう?  ねえ。  蜂くらいでって……。  ママだって虫大嫌いなんだからわかるでしょ?  ちゃんと聞いてよ。  蜂がいっぱいなのよ。  え、どこからって……。  あ、そう、窓……。  窓が開いてるんだもの。   どうしよう……。  もっと増えちゃう。  閉めようと思ったのよ。  それでいまキッチンに行ったら……。  だから閉めたくても近寄れないんだってば。  え、なに?  いまから?  どういうこと?  この状況で?  このまま放って来いって言うの?  無理言わないでよ。  え、会わせたい人?   私に?  え、誰?  誰なの、会わせたい人って。  ねえ?     間。  え!  あの准教授さんが?  来てるの?  いまいるの?  本当?  なんで、どうして?  近くまで来たからって……。  そんな、だからってわざわざ寄るかしら、ふつう。  まあ、それはどっちでもいいけど……。  でも、だからと言ってどうして私と会わせたいの?  近くまで来たから、ふらっと寄ったって言ってるんでしょ?  私、関係ないんじゃない?  さっきからおかしいと思ったの。  なにがって。  口裏を合わせたようにみんなで……。  だからママとマヤ姉さんとお兄さんよ。  一人でパイケーキ?  自分のために?  って、代わる代わる三人で。  まるでフットボールのパスを回すみたいに、誰が言うかってアシストし合ってい  たの?  あの人が待ってるってね。  ねえ、ママ本当に断ってくれたの?  じゃあどうしてまだ訪ねて来たりするの?  え、待ってるわけじゃないの?  じゃあなに、本当にただ近くまで来たからってだけだと思うの?  ねえ、繕わないで。  ママを責めたりはしないわ。  ママの立場もあるしね。  うぅん、それは関係なくはないでしょ?  親友の親戚筋なら……。  だからいま一度お願いするわ。  ちゃんと断って。  もう会う気はないって。  ね。  じゃないとかえって悪いわ。  そうでしょ?  え、なに?  聞いてるわよ。  なんなの、あらたまって。  うん……うん……。  まさか。  そんなこと思ってないわ。  思ってない。  そんなことないってば。  じゃあどうしてって、それは……。  だから、言ったでしょ。  相性よ。  勝手にってなに?  相性って周りが感じるもの?  周りが決めるもの?  当人が感じることでしょ?  そうよ、感じたのよ。  一度しか会ってなくても分かるわ。  それに会ったあとに電話でも何回か話しをしたのよ。  それだけって……。  それだけで十分分かるのよ。  なにがって、だから相性がよ。  そう、あの人の人間性みたいなものもよ。  どうって、それは……。  ねえ、ママ、さっきママが言ったとおり、私は絶世の美人だとも特段やり手のキャ  リアウーマンだとも思ってないわ。  むしろ逆。  特別なものはなにも持っていない、それがわかっているの。  だからなの。  だから重いの。  合わないと思うの。  うん……うん……。  そうね、私もそう思うわ。  彼はとても純朴で常識的だし、頭脳明晰で、しかもそれをひけらかすような人じゃ  ない。  いわゆるいい人なの、善人なの、純粋な。  でもね、私は彼が思っているような人間じゃないわ。  彼が期待するような。  彼が幻想を抱くような。  重いの。  そんなピュアな人間じゃないから。  まったく、そんなレッテルがついちゃって……。  そう、ママの親友だっていう人が私のことを売り込んでくれたみたいじゃない?  ほら、途上国の子供たちのために、とかさ。  学校建設のための助成金申請を……。  そりゃ嘘じゃないけど、そこばっかりクローズアップされても困るの。  私はそんな人じゃないし……。  え、どんな期待って、それは、だから……。  いろいろ言うのよ、そういうことを。  どういうことって、だから……。  思いやりのある人だとか、優しいとか……。  うん、言うの。  そう言われたの。  どうして?  ちっともよくないわ。  本当にそうならいいけど。  本当はそうじゃないんだもの。  うぅん、そんなことある。  それは自分がよく知ってるもの。  逆にどうしてわかるのって思う。  初めて会ったのに。  一度しか会っていないのに。  え、ああ、それは……。  だから、相性の方は、一度会えば分かるのよ。  同じじゃないわ。  あ。  また飛んでる。  蜂よ蜂。  嫌だわ。  このままだと部屋ごと蜂の巣になっちゃいそう。  ねえ、お兄さんは?  お兄さんを呼んでもらえない?     間。  あ、お兄さん。  たびたびごめんね。  また蜂がね……。  うん、たぶん窓から蜂が入って来てると思うの。  キッチンにたくさんいるの。  いまもこっちまで飛んできたわ。  窓を閉めたくても気持ち悪くて近づけなくなっちゃったの。  どうしよう……?  そうね、外から閉められればいいけど、三階だしね。  もっとも閉めたら追い出せなくなるけどね。  でもこのままだともっと入ってくるかもしれないし、一体どうしてなの?  もしもし、もしもし……。  もしもし、お兄さん?  もしもし、もしもし……。  なんなのよ、もう。     間。  ああ、もしもし、お兄さん。  うん……うん……。  そうよ、パイケーキをね。  材料?  ブラウンシュガー、それにレモン果汁と卵とバター……。  あと、ミルクと蜂蜜を少々。  え、種類って蜂蜜の?  えーっと、なんだっけ、ずいぶん前に買ったきりになってて……。  ほら、あの、クマさんの形の容器に入っているのあるじゃない?  知ってる?  そう、クマさんの……。  あ、そうだ、クローバーだったわ。  それがどうしたの?  もしもし、もしもし……。  まただわ。  もう……。    間。  あ、はい、もしもし……。  え、決定的?  ああ、そう、やっぱりクマミツバチなのね。  え、それが原因?  クマの蜂蜜が?  あ、そう、大好物なの?  その、クマミツバチの。  でも変ね、ミツバチが花に集まるなら分かるけど、蜂蜜に群がるなんてね。  あ、もしかしてそれでクマミツバチって名前になったのかしらね?  まあ、それはどうでもいいんだけど。  ええ、蓋は閉めてあるわ。  あ、それで、容器のあたりを中心に飛び回ってるのね。  なんだか原因がわかって少しだけ落ち着いた気もするけど……。  とにかく早くここから……。  え、注意って?  そのクマミツバチに?  どうなっちゃうの、刺されると……?  え、人によってはってどういうこと?  痛みに耐えかねて?  そんなに痛いの?  うん……うん……。  え、私?  痛みにね……。  そうね、特別弱くはないだろうけど、特別強くも……。  とにかく刺されるととても痛いわけね。  で、気を失っちゃうくらいなの?  あ、人によってはね。  え、やだ、こんなところで一人で気を失いたくないわ。  え、ええ、もちろん。  こちらから刺激なんて絶対しないわ。  それなら襲われたりしない?  絶対?  はず?  はずって……。  ねえ。  あれ、もしもし、もしもし……。  また、もう。     間。  あ、はい。  ねえ、お兄さん、もしかして百科事典でも傍らに置いて電話してるんじゃない?  だって、いちいち話が途切れるんだもの。  え、なに?  ナツメグの皮ですって?  そんなのないわ。  そもそもナツメグって実の方を使うじゃない?  皮なんてどこに売ってるかしら?  で、それがなんなの?  杏子ジャムと一緒に……。  杏子ジャム?  ないわ、それもない。  混ぜて火にかけるの?  煮るの?  砂糖を混ぜて?  それがいいの?  その煮立てた匂いが?  それで撃退出来るの?  そう。  でも駄目ね。  どっちもないんだもの。  それにもし手に入ったとしても蜂が飛び回っていてキッチンには入りたくない  わ。  赤い服?  ショール?  赤いものを纏えば大丈夫なの?  近づいてこないの?  赤い服……。  そうね、服じゃなくてもね。  でも思い浮かばないわ。  タオル、ブランケット、カーテン……。  ふふ。  いっそシーツをトマトジュースで染めようかしら?  なんて、冗談。  馬鹿ね。  ごめんなさい。  お兄さんが真面目に知恵を絞ってくれているのになんにも応えられないから苛  立っているの、自分に対して。  許してね。  え、違うってなにが?  入れ知恵?  誰の?  彼?  彼って?  え、あの人が?  あの人も聞いてるの?  この話全部?  あ、それでアドバイスをもらっていたわけね。  そう、なるほどね。  生物資源学だっけ?  研究分野だものね、あの人の。  あ、うぅん、いいの。  お兄さんが謝ることない。  聞いてもらって構わないの。  むしろいいわ。  こんな醜態。  見せられないのが残念なくらい。  ごちゃごちゃのテーブル、キッチン。  本当にひどいの。  今朝飲みかけたジュース、齧ったままのパンとクラッカー。  汚れたままのお皿とフォーク、油まみれのフライパン。  お鍋には失敗作のミネストローネ。  しかもブンブン蜂が飛び回るキッチン。  そんなところで作るパイケーキ。  お味はたかが知れてるかしら?  ねえ、どうしてなのかしらね?  なにがって、あの人。  准教授さん。  どうして来るんだろう?  そう……そうね……。  ママが気を使ってるんだろうけどね。  でもはっきり言ってあげた方がいいと思うの。  え、どう思うかって、私?  まあ、なんて言うか、好きとか嫌いとかっていう以前って言うか……。  そう、嫌っているわけじゃないの。  少なくともね。  でも嫌なの。  結末が見えるのが。  そう、見えてるのがね。  どんなって……。  察してよ、お兄さん。  マヤ姉さんとお兄さんみたいな関係にはなれないだろうってこと。  だって……。  マヤ姉さんと私は似てるの。  共通点が多いでしょ?  やせ我慢屋のところとか、それでいて甘えたがり屋だったり、ズボラだったり  ……。  それを引き受けられる度量があるお兄さんと巡り合えて、マヤ姉さんって幸せ  だなって思うの。  本当よ。  お兄さんっていう人がもう一人いればいいのにって思う。  羨ましいわ。  本当だってば。  でも……。  うぅん、あの人は違うと思う。  あの人は逆なの。  あの人は私にある僅かないい部分だけに好意を抱いているの。  あるかなしかの長所を。  それはわかるの。  そうなんだってば。  うぅん、わかるの。  どうしてって……。  え、確かめる?  確かめるって、どうやって?  ここに、これから?  お兄さんが連れてくるの?  ちょっと待ってよ。  そんな性急な……。  え、だって……。  いまちょっと酷いの。  私自体も、部屋も。  あ、そうか、それを見てもらうんだものね。  うん……うん……。  そう?  うん……うん……。  そうね、このままじゃあの人が可哀そうよね。  うん、彼のためにね。  それは分かるわ。  でも、どうかしら……。  せっかくの提案だけど、あの人って、高潔っていうか、夜になんて来るかしら?  ああ、そうよね、私、いま蜂に襲撃されそうなんだものね。  もし刺されたりしたら大変なんだものね。  じゃあ助けて。  恐くて、私……。  っていうのが一応の大義名分ね。  しおらしく泣きながら待っていたいところだけど、ちょっとサマにならないわ。  だって、ほら、この部屋のあり様だから。  うぅん、いいの。  敢えて見せるんだものね。  嫌ってもらえる材料は豊富よ。  事務所のトイレで鏡を見たっきりのこの顔とか。  すでに限界を超えたと思えるルームシューズ。  染みだらけのランチョンマット。  床に落ちたままのショルダー。  年中壁に掛かっている冬物のジャケット。  さあ、どこからでもいらっしゃい。  なんて……。  ふふふ。  そりゃ嫌われていい気持ちはしないけど、その方があの人のためでしょ?  うぅん、迷惑じゃないってば。  本当に。  うん……うん……。  いえ、どういたしまして。  こちらこそ、ありがとう。  うん、じゃあ、一時間後にね。  はい。     女、受話器を置く。     沈黙。     テーブル上に広げられたパンフレットをバッグに仕舞う。     そしてボウルなどの調理器具の配置をさりげなく整える。          女、受話器を取り、ダイアル(もしくはプッシュ)する。  もしもし……。  あ、ママ、じゃなくてマヤ姉さん。  え、どうせ私からだと?  ずいぶんね。  嘘よ、いいの、そうなの、マヤ姉さんと話したかったの。  ねえ、来てもらうことにしたの。  あ、聞いた?  そう、蜂のことでね。  助けてもらうの。  このままじゃ今夜眠れないもの。  まだ二人いるでしょ?  ママって赤いショール持っていたよね?  探してお兄さんに持たせてくれない?  どうするって、必要だと思うの。  勇敢なナイトさんが。  ねえ。  お兄さんったらあの人のこと自分に似てるって言うのよ。  男同士だから分かるんだって。  どうせ好きになれないのなら、振るか振られるかしてあげてって……。  でももし嫌いじゃないならって……。  それでね、連れてきてもらうことにしたの。  見てもらうことにしたの。  私を。  僅かな長所以外の部分を。  つまり大部分の短所を。  うん、在りのままをね。  それでどう思うか。  ふふ。  そう、確かめてもらうの。  でも私も知りたいの。  彼の度量を。  え。  そう?  マヤ姉さんもそう思う?  へえ、そうかなぁ……。  お兄さんとは全然違うタイプのような気がするけど……。  うん……うん……。  そうだったの?  はじめて聞いた。  なんだか意外ね。  じゃあマヤ姉さんからしたら最初は招かれざるナイトだったってわけ?  へえ、あのお兄さんがね……。  うん……うん……。  え、エプロン?  あ、これが?  そうだったの?  あの人がくれたの?  お揃いなの?  ママとマヤ姉さんと。  今日のケーキも?  だって予約してあったって言ってたじゃない?  あ、あの人がってこと?  へえ……。     間。  ねえ、いまふと思ったんだけど、やっぱり少しは体裁整えてもいいよね?  なにも無理して嫌われることないわよね?  なにも最初から幻滅してもらうためにがんばることないよね?  装ったり、繕ったりするって、むしろ自然よね?  夫婦だって見せない部分はあるでしょ?  舞台裏あるでしょ?  ね、そうよね。  マヤ姉さんはどんな?  いいじゃない。  女同士なんだから。  え、なに、ケーキ?  ああ、せっかくだから持って来てもらおうかしら。  ねえ、それよりもさ……。  なによ、言わないから、絶対。  あら、急に声が小さくなっちゃって。  あ、まだいるの?  そう、ふふ。  うん……うん……。     ゆるやかに闇が迫る。     会話は続いている。  うん……うん……。  ふふ、へえ……。  そうなんだ。  へえ……。  で、それお兄さんは知らないの?  そう。  うん……うん……。  へえ、ふふ。     会話は続いている。     やがて暗転。           ‐了‐