腰の低い料理店              ソンブレロ      小さなレストランの店内。      中央にテーブル、椅子が二脚。      女1、テーブルの上を拭いている。      やがて女2、現れる。 女1 いらっしゃいませ。 女2 こんにちは。  珍しく空いているわね。 女1 ええ、もう3時ですから。  いま閉めようと思ってたんです。 女2 あら、もう終わりなの? 女1 申し訳ありませんが、6時まで準備中となります。 女2 そう、じゃあちょうど良かった。  あ、うぅん、それは残念ね。  ここのランチを楽しみにして来たのに。 女1 いつもご贔屓にして頂いて、ありがとうございます。 女2 今日はちょっと出遅れちゃったのよね。 女1 簡単なパスタ料理でよろしければ用意いたしますが……。 女2 うぅん、悪いわ。  でもちょっと疲れたから少しだけ休ませてもらってもいいかしら? 女1 ええ、どうぞ。  いまお水を持って参りますので。      女2、座る。 女2 ねえ、それよりここに掛けていただけない? 女1 は? 女2 今日のランチは何だったの? 女1 彩り野菜のバーニャカウダ、自家製ロースハム、茸とカレイ  のアクアパッツァ、そしてワタリ蟹のサルディーニャ風スパゲティ  です。 女2 そう、聞かなきゃよかった。  どうして食べ損なった日のメニューっておいしそうに聞こえるの  かしら。 女1 申し訳ありません。 女2 あなたが謝ることないわ。  遅く来た私がいけないんだから。  でも1時ちょっと過ぎに来た時も今日の分のランチは終わりって  言われたっけね。 女1 その節は大変失礼いたしました。  なにぶん一人で切り盛りしております都合上、お客様にはご不便  をお掛けしております。 女2 だからあなたのせいじゃないんだってば。  人気の料理店なんだもの。  開店前から並ぶくらいの覚悟で来なかった私がいけないのよ。  でもそう思って先週だったか、一番乗りって勢いで来てみたら、  そういう日に限ってお休みだったわ。 女1 やっぱり、なにか作らせて頂きます。 女2 ねえ、本当に気を使う必要はないのよ。  ただ、その代わりってわけじゃないけどね……。  私にこのお店の料理の作り方を教えていただけないかしら? 女1 は? 女2 もちろん全部じゃないわよ。  たとえばランチやディナーのコースの中から私の好きなメニュー  をいくつかとかね。 女1 私が、お客様に、その作り方を伝授して差し上げると……? 女2 そう、そうすれば、おうちでもこのお店の味が楽しめるし、  あなただって余計な気を使わなくて済むし、双方にメリットが  あると思うの。 女1 はあ……。 女2 あ、心配しないでね。  こう見えても口はかたいのよ。  教えてもらったレシピは誰にも漏らさないって約束するわ。 女1 ええ、でも……。 女2 ああ、それから私ね、父が経営する家具店で副社長をして  るの。  けっこう忙しいのよ。  作り方を教えてもらったからって、お店を開いたりして、あな  たの商売の邪魔をするなんてことはないから安心してね。 女1 いえ、その、私もまだ勉強中の身で、人様に教えて差し上  げるだけの腕前も自信もございませんし……。 女2 あら、これだけの人気店を切り盛りしているのに、ずいぶ  んとご謙遜ね。  私ね、こう見えてもママに代わってキッチンに立つこともある  の。  レパートリーは多くないけど、スクランブルエッグを作らせた  ら世界一だってパパは絶賛してるわ。  少なくともあなたの手を煩わせるほど素人ではないはずよ。 女1 それは頼もしい。  卵料理は料理の基本とも言われますし、火加減が物を言います  ので高度な技術が必要ですからね。  お見それしました。  どこまで出来るかわかりませんが、私の師事する料理家の教え  に従いまして精一杯手ほどきさせていただきます。 女2 はい、よろしくお願いいたします。 女1 では早速。 女2 あ、もう?      女2、立ち上がる。 女1 いえ、まずはお座りになったままでご覧になってください。  フライパンで炒める動作をお見せしますので。 女2 あ、動作だけなの? 女1 はい、仕事の良し悪しは、その動作の美しさで決まります。  ムダなくシンプルに動くことが出来れば、結果はおのずとつい  てきます。  これはわが師の言葉です。 女2 なるほど、フォームの美しさが出来栄えに反映されるって  わけね。 女1 ええ、では基本中の基本のフライパンの持ち方から始めま  す。  ご存知かとは思いますが、フライパンは利き手ではない方の手  で持ちます。  このように手の甲を下に向けて、親指は上に向けて柄の部分を  握ります。 女2 え、ええ、確かそうよね、知ってたわ。 女1 次に細かく刻んだ野菜やベーコンが用意されているといた  しまして、それらを強火にかけて炒めてみます。        女1、小刻みに腕を振る。 女2 さすが華麗なフライパンさばきね。 女1 ありがとうございます。  これもご存知でしょうけど、フライパンは上下ではなく前後に  振ります。  細かい具材を炒める時には、フライパンのへりの部分に向かっ  てすべらせてから軽く手首を使って跳びあがらせます。 女2 あらあら不思議ね。  なんだか野菜やベーコンが宙を舞っているのが見えるようだわ。 女1 そしてもうひとつ動作とともに重要なポイントがありまし  て……。 女2 味付けよね? 女1 いえ、その前に音です。 女2 え、音? 女1 ええ、仕事の良し悪しが決まる二つ目の要素がリズミカル  な音です。  バランスのとれた動きとキレのある音が料理の成否を決めるこ  とになります。  たとえばこの具材を炒める時のリズムは、ジュワッ、ジュワッ、  ジュワッ、となります。  ちなみにジュワッの頭のジュッの部分がアクセントになるよう  な意識で、そしてワッのタイミングで手首を返すのがコツです。 女2 えーっと、まずジュッっていうところにアクセントを置い  て、ワッっていうところで手首を返すのよね? 女1 そのとおりです。  では、動作に合わせて繰り返してまいります。  ジュワッ、ジュワッ、ジュワッ。  ジュワッ、ジュワッ、ジュワッ。  もしよろしければ動作と声をご一緒にいかがですか? 女2 え。 女1 せーの。 二人 ジュワッ、ジュワッ、ジュワッ。 女1 はいもう一度。 二人 ジュワッ、ジュワッ、ジュワッ。 女1 素晴らしいです。  さすが飲み込みが早くていらっしゃって、音も動作も完璧です。  さて、次が最後の重要ポイントになります。 女2 いよいよ味付けね? 女1 いえ、三つ目の要素は、香りです。  煮もの、焼きもの、炒めもの、その出来栄えを正確に反映する  のが香りです。 女2 まあ、香りも大事でしょうけどね……。 女1 以上の三つのポイントをおさえることが何より重要であり、  最良の結果につながるとわが師は申しております。 女2 まさか味見はしないなんてことはないわよね? 女1 もちろんいたしますが、結果を判定下さるのはお客様です。  お客様がまた食べたい、再訪していただけるということが料理  の出来栄えの最終成果になります。 女2 で、その結果を導くには三つの要素を満たすことが条件に  なるってわけね。  なんだか堂々巡りみたいで、よくわからなくなってきたわ。 女1 難しく考える必要はありません。  至ってシンプルな理論です。 女2 でもとっても遠回りになるような気がするわ。 女1 急がば回れと申します。  急いてはことを仕損じるというのが世の常でございます。 女2 ねえ、私がひとつでも完全に作れるようになるにはどれく  らいの期間が必要かしら? 女1 そうですね……。  高い能力をお持ちのようですから、二、三年もあれば目的を達  せられるのではと……。 女2 二、三年ですって?  急がば回れはわかるけど、もう少しなんとかしていただけない?  何度も言うようだけど、私もけっこう忙しい身なのよ。 女1 では営業中の厨房にご案内いたします。  私の傍らで作業の一部始終をご覧いただき、更に料理の出来栄  えをご賞味いただくことで、習得期間の短縮を図りたいと思い  ます。 女2 私が味を見るの? 女1 ええ、まずは味覚を鍛えるために料理の味を覚えて頂きま  す。  僅かな味の変化をご指摘頂き、料理の質を保つお目付け役的な  任務を担って頂きたいと思います。 女2 つまりこのお店の味を決めるってことでしょ?  そんな重責を果たせるかしら? 女1 すべての料理ではありません。  一食分で結構です。  そしてたいらげてくださいませ。  前菜、副菜、メインディッシュ、ご完食いただいた上での感想  を頂戴したく存じます。 女2 あら、全部食べちゃっていいの?  だったら授業料の方も奮発させて頂かなきゃね。 女1 授業料なんてとんでもございません。  私もまだ修行中の身ですし、忌憚のない感想をいただけること  はこの上ない勉強の機会になりますから。  むしろ油が飛びはねてお召しものを汚したり、窮屈な場所でご  試食いただくことを心苦しく思います。 女2 こちらこそ修行の身なんだもの、それくらいの我慢は仕方  ないわ。  それに料理の代金だけは絶対にお支払いさせてね。 女1 了解しました。  ではせめて客席にてご判定ください。  お客様はテーブルにてお召し上がりになり、通常のお支払いを  された上で、厳正なご判断をくだしていただく。  もちろん授業料は発生しませんが、その代わりに本来こちらが  お支払いすべきコンサルタント料もご免除ください。 女2 通常の支払いだけで、授業料はなし……。  私にばっかり有利な気がするけど……。  じゃあ出来るだけ多く通って貢献させていただくわね。 女1 いえ、お客様もお忙しい身でいらっしゃいますし、時間の  許す時にお越しくださればと思います。 女2 ランチタイムとディナータイムはどちらがいいかしら? 女1 もちろんどちらでも。  ですが一般のお客様もいらっしゃいますし、まことに恐縮です  が、あらかじめご予約いただけますと幸いでございます。 女2 そうね、そうすればお互いにムダがないわよね。  ねえ、わざわざ窓際の席をリザーブして頂かなくても結構よ。  どうか余計な気を使わないでね。 女1 ええ、音と香りがよく届くように敢えて通路側の厨房に一  番近いお席を用意させていただきます。  当店はオープンキッチンですので、見て聞いて香りを感じてい  ただければと思います。 女2 動きと音と香りだったわね。  しっかりと見て聞いて、鼻もきかせてお勉強しなくちゃ。  ところで、オープンキッチンだったらほかのお客さんにも丸見え  なわけだし、大事なノウハウが盗まれるんじゃないかしら? 女1 見て聞いて香りを感じるという習得方法を知らない人にとっ  ては、ただの調理場の風景にしか映りませんのでご安心くださ  い。 女2 ねえ、この習得方法って誰かに教えたことがある? 女1 いいえ、ございません。  お客様が初めてです。 女2 じゃあ、これからも誰にも教えないでいただけない?  私って独占欲が強いのよね。  せっかく教えてもらったノウハウは自分一人のものにしたいの。 女1 はい、お約束いたします。  その代わりと言ったらなんですが、お客様からの口外もお控え  願えないでしょうか? 女2 ええ、もちろん、誓って誰にも漏らさないわ。  じゃあ早速だけど、今週末にディナーの予約をお願いね。 女1 生憎ですが、今月はすべて予約が埋まってございます。  来月末ならお受け出来ますが……。 女2 あらあら、さすがは人気店ね。  じゃあ来月末の金曜日にお願いね。 女1 承りました。 女2 ずいぶん先が長くなりそうだけど、仕方ないか、急がば回  れだものね? 女1 ご不便をお掛けして申し訳ありません。 女2 どこまでも謙虚な人ね。  私もその姿勢に習って真摯にお勉強させて頂くわ。  あ、休憩中だったわね。  ごめんなさい。  ではまた、来月末に。 女1 はい、お待ちしております。 女2 じゃあ……。  あ、例の約束お願いね。 女1 はい、お客様の方も、どうか。 女2 ええ、私達だけの秘密ね。  ふふふふ。      女2、去る。      女1、深々と頭を下げる。          ‐了‐