予約席            ソンブレロ     中央にベンチ。     背もたれに一枚の貼り紙。          男(男1)が現れる。     ベンチの貼り紙に気づき、思案している。      やがてもう一人の男(男2)が現れ、お もむろにベンチの真ん中に座る。 1 あ、あの……。 2 え。 1 いえ、その、貼り紙があったので。 2 貼り紙? 1 ええ、背もたれのところに。  なんて書いてあるのかわかりませんけど……。 2 あ、本当だ。  なんだろう……。 1 ペンキ塗りたてとか? 2 いや、ほら、何も問題ありません。  ね。 1 ああ。 2 ご忠告ありがとうございます。 1 いえ……。 2 でも、どういう意味なんでしょう、ベンチを予約だなんて……。 1 え、予約? 2 そう書いてあるみたいです。 1 読めるんですか? 2 ええ、まあ。  リザーブみたいな意味だったりして。 1 公園のベンチを? 2 私も完璧に読めるわけじゃないんですけどね。  ほら、スペイン語が読めればポルトガル語もなんとなく読めたり するっていう程度のものです。 1 でもそれポルトガル語じゃないですよね? 2 ええ、アゼルバイジャン語のようです。 1 アゼルバイジャン語?  どうしてそんな言葉で……。 2 そんな? 1 だってほとんどの人は読めないでしょうし。 2 でも読めない方がかえって注意を引くかもしれません。 1 ふつうは逆でしょうけどね。 2 なるほど、私は気がつきませんでした。  で、座っちゃいました。  読めるのにですよ。  それはなぜでしょう? 1 ……。 2 ふつうじゃないから? 1 あ、いや……。  2 あなたそうおっしゃいましたよ。  読める方が気を引く、それがふつうだって。 1 べつに、そんな……。 2 そもそも「ふつう」という概念は根拠のない偏った価値観によ るものです。  取り扱いには細心の注意を払いたいものですね。 1 はあ、失礼しました。 2 ところでどうですか?  そんなところに突っ立ってないで掛けませんか?     2、脇に寄る。 2 ここ、空いてますよ。 1 え、ええ……。 2 どうぞ。 1 はい……。 2 ここに座るのは気が進みませんか? 1 いえ、そういうわけじゃ……。 2 大丈夫、私はあなたが思うほど変人ではありませんから。 1 そんなこと思っていませんよ。 2 この貼り紙が気になるのですか?          2、貼り紙を剥がして背もたれの裏側 に貼る。 2 さあ。 1、仕方なくというかんじで2の横に 座る。 2 人を立たせておくというのは気持ちのいいものじゃありません からね。  待ち合わせですか? 1 はあ。 2 恋人ですか?  待ち人さんは。 1 ……。 2 お友達ですか? 1 いや、えーっと……。 2 あ、やっぱり恋人なんでしょ?  ね。 1 はあ……。 2 いいですね。  天気のいい土曜日の午後。  公園で恋人との待ち合わせ。  羨ましい。 1 ……。 2 もうお付き合いされてどのくらい経つんですか? 1 は? 2 知り合ってから長いんですか? 1 なんですか? 2 え。  なんですかって? 1 いや、なんでそんなこと聞くのかなって。 2 興味があるからです。  いけませんでしたか?  付き合ってどのくらいかって思うことが。 1 思うのはいいけど、聞かないでしょ。  ふつう。 2 え。 1 あ……。 2 ふつう? 1 あ、いえ……。 2 結構です。  誰だって人に聞かれたくないことはありますからね。  失礼しました。  質問を変えます。  じゃあ、えーっと……。  あなたは恋人のことをなんてお呼びになるんですか? 1 はい? 2 いや、ですから、恋人の呼び方です。  名前で呼ぶのか、ニックネームなのか。  ニックネームならその由来とかね。 1 なんですか、それ。 2 なにがですか? 1 なにがって、どうしてそんなこと聞くんですか? 2 また逆質問ですか?  付き合った期間を聞かれるのは抵抗がおありのようなので、質問  を変えてみたのですが、これも駄目ですか?  じゃあなんならいいんでしょう? 1 なんならって……。 2 顔やスタイルなら見れば分かるわけですしね。 1 見る……? 2 だってここに来るんでしょうから。  それより内面的なことを知りたいなと思いまして。 1 あなたって一体何なんですか? 2 私が何なのか?  あ、失礼。  これじゃフレンドリーを通り越したただの無礼者でした。  えーっと、では私のどの部分から説明して差し上げましょうかね  ……。 1 いえ、結構です。 2 ああ……。  完全に怒らせてしまった。 1 べつに怒っていませんよ。 2 いや、怒ってますね。  わかります。  多少なりとも気分を害されたでしょう? 1 ……。 2 謝ります。  厚かましい振舞いを反省します。  どうか……。     2、深々と頭を下げる。 2 お許し頂けそうですか? 1 え、ああ、まあ……。 2 ひとつ言いわけをさせてください。  この厚かましさの根源にあるのは羨望なんです。 1 羨望? 2 ええ、あなたがたのような善男善女に対して。  あなたのような善人の傍にはそれに相応しい恋人が寄り添うわけ  です。  そういう摂理みたいなものがですね、たまらなく羨ましいのです。 1 善男善女って、どうしてそんなことわかるんですか? 2 わかりますとも。  ひと目見ればあなたがどちらの社会の人かくらいは。 1 どちらって? 2 表か裏かです。  間違いなく表側の方です。 1 表だからって必ずしも善人とは限らないんじゃないですか? 2 ごもっともです。  表にも裏にもそれぞれ善悪は存在するでしょうからね。  でも私にはわかりますよ。  あなたは表側の社会に住む善の中の善です。  だから羨ましいんですよ。 1 人から羨ましがられるなんてはじめてじゃないかな……。 2 それは陽のあたる環境にいる証拠ですよ。 1 じゃああなたは? 2 あなたを羨むくらいですから……。  人は自分にないものに憧れを抱くものなんですね。 1 そういうふうには見えませんけど……。 2 ですから余計にストレスになるんです。  なにかしら捌け口があればいいんですが……。 1 ……。 2 飲めないんです。  アルコールがまったく。  少しでも飲めれば酒場でほかの客に絡んだりして、一時でも現実  を忘れられるでしょうね。  それならまだふつうでしょ? 1 あ、ふつう……? 2 今のは偏見なんかじゃなくて健全な願望を含んだ形容です。  でね、今日はとうとう真昼間の公園で、たまたま居合わせた人に  罠をかけてしまったというわけなんです。 1 罠ですって? 2 ええ、じつはこの貼り紙は私の仕業なんです。  これひとつで話のきっかけになりますからね。 1 参ったな。 2 これも人助けと思ってご辛抱頂けませんか。 1 人助けって、裏の社会の人をですか? 2 裏と言っても暗黒街で生まれ育ったわけではありませんけどね。  まったく、人生っていつ何がきっかけで反転するかわからないも  のです。 1 あなたの職業を伺っても構いませんか? 2 貿易会社を営んでいます。 1 経営者なんですか? 2 ええ、ワールドポート、コーザ・ラニエロ。  もちろんご存知では無いでしょうけど。 1 はじめて聞く社名です。 2 会社としては何も機能していませんからね。 1 え。 2 看板だけの会社です。  いえ、正確には看板すらありません。  まったく架空の会社です。  でも社の口座には月々潤沢に過ぎるくらいのお金が振り込まれま  す。  一人で使いきるには骨が折れるくらいの。 1 ……。 2 こういう種類のお金というのは下手に残しておけないものです  からね。 1 その理由を聞いてもいいですか? 2 お金というのは貯まり過ぎると目立つんです。  小さな会社で、しかも営業実態のない会社の口座に多額の残高が  積み上がっていれば、どこからともなく嗅ぎつけられてしまいま  すから。 1 あ、いや、理由を聞いたのは、多額のお金が振り込まれること  についてだったんですが……。 2 ああ、失礼。  そもそもなぜお金が振り込まれるか、ですね。 1 いえ、もう結構です。 2 大丈夫、どこまで聞いてもあなたに危害が及ぶようなことはあ  りませんからご心配なく。  じつは、こんなことをするのははじめてなもので、何のお礼も用  意していませんでした。 1 お礼? 2 ええ、お相手頂いていることに対して。     2、懐から小さな封筒を取り出し、1に     差し出す。      2 よろしかったら……。 1 なんですか? 2 ほんの気持ちです。  どうかお納めください。 1 なんだか分からないけど、頂けませんよ。 2 なんだか分からないのに受け取れないというのはどういうわけ  ですか? 1 初対面のあなたから頂く義理はないということです。 2 なるほど。  でもそんな気を回すほどのものではありませんよ。 1 じゃあ頂く前に中を見せてもらってもいいですか? 2 もちろんですとも。       2、封筒の中に指を入れる。 2 決して怪しいものなんて入って……。     2、封筒の中から白い顆粒入りの小袋を     つまみ出す。 2 あれ。  えーっと、これはともかく……。 1 それはなんですか? 2 いや、べつに……。 ちょっとした栄養剤のようなものです。 1 栄養剤? 2 ええ、ダイエット用の。  行きつけのスポーツジムのアドバイザーからもらったんです。  試供品らしいんですけど、ひと箱丸々くれたんで、小分けにして  持ってるんですよ。 1 本当に栄養剤なんですか? 2 ええ、ほかに何に見えるんですか? 1 ……。 2 オーケー、じゃあこれは除外しましょう。     2、小袋を懐に仕舞い、封筒を探る。 2 あ、これだ。     2、番号の記されたカードを取り出す。 2 引換券なんです。  これを然るべき場所にご持参下さい。  ここに地図も入っていますから。 1 引換券? 2 絵はお好きですか?  油絵ですよ。  落札したんです。  支払いは済んでいますからこの引換券を提示すれば受け取れます。 1 直に見ないで落札したのならそれなりの価値はあるものですよ  ね?  そんなものは受け取れません。 2 確かに代理を立てて競り落としてもらったのですが、大したも  のじゃありませんよ。  どこの家でもひと瓶くらいはある、ちょっと高めのブランデーく  らいの値うちのものです。 1 せっかくですが……。 2 まあ、絵画なんてものは好みがありますからね。  今度からはもっと気の利いたものを用意しておくことにします。 1 ……。 2 いえ、冗談です。  そもそも待ち合わせをされている方々の中に首を突っ込むこと自  体が失礼の始まりでしたね。  では、そろそろ私は……。 1 約束の方は消滅しました。 2 え。 1 待ち合わせの時間はすでに過ぎていますから。 2 連絡はとれないんですか? 1 一方的な約束だったんです。  いえ、約束ですらありません。  お願いっていうか……。  もしよかったらってことで場所と時間を指定したんです。 2 もうどれくらい過ぎてるんですか? 1 二時間になります。 2 よっぽどの想いなんですね。 そんなに待てるなんて。 1 いえ、待っていたのは最初の数十分だけです。  あのバラ園の入り口が指定した場所でした。 2 じゃあそのあとは? 1 来ないことを確認したいだけです。  見届けないことには諦めもつかないので。 2 でもこれでもし来たらさぞ嬉しいでしょうね? 1 今更来られてもそれはそれで困るんです。 2 どうしてです? 1 だって二時間も待たれたら、むしろ気味が悪いでしょ? 2 そうかな……。 1 もし来るとしても単なる好奇心からでしょう。  私がどれだけ待っているかということへの興味でね。 2 どうせ待つなら希望をもちましょうよ。  もしかして指定した時間を間違えているのかもしれないし。 1 ええ、それが唯一の希望です。  だから万が一来たら遠巻きに見極めようと思います。  間違えて遅れたのか、それともただの冷やかしなのかを。 2 冷やかしだとしたら、どこかのかげから様子を窺っているって  ことも考えられますよね? 1 いや、時間を間違えたことを装って現れるという方が可能性と  しては高いと思います。 2 でも、遠くから見てあなたがいないことが分かればすぐに引き  返しちゃうでしょ? 1 間違えたふりをするくらいですから、私がどこかで見ているか  もしれないくらいの想像力は働かせるでしょう。 2 つまり、来たことで一応の約束は果たしつつ、あわよくばあな  たの出方をも観察出来るというわけですか? 1 あくまで推測ですけどね。 2 ……。 1 どうかしました? 2 いや、参りました。  あなたのその強靭な疑心暗鬼的想像力に。 1 いわゆる恋人同士の待ち合わせではありませんから、そのあた  りをお察しください。 2 まあ、あなたの待ち人なんだからあなたの作戦を尊重しましょ  う。  問題は、その見極めたあとどう出るか、ですよね。 1 え。 2 うーん……。      沈黙。 2 うん、やっぱりここは小芝居のひとつでも打ちましょうか。 1 なんですって? 2 ほら、二時間も待ってたら気味が悪いと思われるって言ったで  しょ?  そう思われないシナリオを考えてみたんです。  ちょっとした芝居のね。 1 芝居? 2 ええ、きっと有効なはずです。  まずは向こうが時間を間違えていたという想定からいきますね。  たとえば、いまその待ち人さんが現れたとします。  タイミングを見計らって、あなたが駆けつけるわけです。  息せき切って、ああ、ごめんごめんなんて言いながらね。 1 つまりこちらも遅れたことにするわけですか? 2 そう、二人とも遅れたおかげで偶然会えたってわけです。  「申し訳ない、急に外せない用事が出来てしまって、でもまさか  待っていてくれるとは!もうとっくに待ち合わせ時間を過ぎてい  るのに……」なんて言って彼女の間違いをさりげなく指摘します。  その時の反応で本当に間違えていたかを探ることが出来るし、も  ちろん二時間待っていたことも悟られません。  ね、いかがです? 1 まあ、わりといいかもしれませんけど……。 2 ですよね?  更に相手の間違いを自分の伝達ミスだったと被るんです。  謙虚で寛大な姿勢を見せれば好感度だって上がるかもしれません  しね。  じゃあ次は、彼女が遅れた認識ありの方のバージョンいきますね。 1 いや、もう結構です。  どっちにしても私にはそんな小芝居を打つことなんて出来ません  よ。 2 そんなに難しくもないと思いますけど。 1 だって虚しいじゃないですか。  こんなに待っておきながら今更急に息せき切らして、いやぁ申し  訳ない、急に外せない用事が出来てこんなに遅れちゃって、なん  て……。  そんな芝居出来ませんよ。 2 結構うまいじゃないですか。 1 うまくないですよ。 2 とても二時間待っていた人には見えなかったけどなぁ、でも虚  しいか……。  じゃあこんなのはどうですか。  私とあなたは旧知の仲だったと、それで偶然ここでばったり会っ  て、懐かしさから話に花が咲いて延々と、なんてね。  とっても自然な流れじゃありませんか? 1 まああんまり話に花が咲いてはいませんけどね。 2 あ、そこ大事ですか?  よし、だったら弾ませましょう。  会話を。  咲かせましょうよ、話に花を。 1 ずいぶん張り切ってますね。 2 そりゃまあ暇ですからね。 1 そうですよね、働かなくてもたくさんのお金が入ってくるんで  すものね。 2 ええ、望まなくともね。 1 一体どうやったらそんな……。 2 やっぱり聞きたいですよね? 1 ちょっと怖いけど……。  なにかとてつもなく巧妙に仕組まれているのでしょうね。  非合法な取引方法とかが。 2 いや、いくら裏の社会の人間とは言っても、私自身は一度だっ  て罪を犯してはいません。 1 それはあらゆる手段によって法の目を掻い潜ってきたというこ  とですか? 2 確かに架空の会社名義の口座を作っているのは、カムフラージュ  が目的です。  でも振り込まれるお金は、人を欺いたり脅したりして得ているわ  けではないんです。  まあ、つまり対価と言うべきか……。 1 あなたが働いたことによる? 2 いや、代償と言うか、慰謝料と言うか……。  あ、口止め料と言った方が分かりやすいですね。 1 口止め料ですって?  へえ。  ようやくここにきて裏社会の匂いがしてきましたね。  それほど多額の口止め料をもらってるってことは、相当な弱みを  握ってるわけですよね?  でも、それって立派な脅迫じゃありませんか? 2 こちらから要求したわけじゃありません。  繰り返しますが、私は一度も罪を犯したことはないんです。  まあ、起訴はされましたけどね。 1 は?  起訴? 2 そう、起訴されて出廷して判決が言い渡されて……。  裁判的には決着がついたわけです。  執行猶予つきで。 1 有罪判決じゃないですか。 2 表向きの結果的としては。 1 じゃあ冤罪だと? 2 まあ。  さすがに核心までは言えませんが……。  じつは私は、ある有力者の秘書を務めていました。  それは石油富豪で上院議員でもある人物です。  すべての悲劇はそこから始まりました。       沈黙。   1 ああ……。 2 え。 1 なるほど。 2 なるほどって? 1 いえ、よくわからないけど……。  秘書であるあなたにすべての責任が転嫁された。  早い話がそういうことなんじゃないですか? 2 そう、まさにその通りです。  話すと長くなりますが……。 1 地位の高い人がとる常套手段ですね。  誰が聞いても秘書の独断ではないのは明白なのに……。  それは災難でしたよね。  あ、災難っていう言葉が適切かどうか分かりませんけど。 2 いや、妥当でしょう。  詳しくお話し出来ないのが残念ですが……。 1 ところでアゼルバイジャン語ってどこで覚えたんですか? 2 は? 1 あ、やっぱりアゼルバイジャンで、ですよね? 2 いや……。 1 違うんですか? 2 違うって言うか…。 え。 1 え。  なんか、いけないこと聞いちゃいました? 2 いえ、いいんです。  聞いていいんですよ。 1 スペイン語も話せるんでしたっけ? 2 読めるって程度かな。 1 謙遜でしょ?  ペラペラだったりして。 2 いや、それはいいんだけど、あの、なんて言うか……。 終わり? もう? 1 終わりって? 2 さっきの話。 1 さっき?  アゼルバイジャン? 2 だから違うってば。  例の口止め料の件について、秘書になった経緯とかね、その  あたりについてですよ。 1 でも詳しくは話せないってさっき……。 2 そりゃ核心には触れられないけど、概要くらいなら……。 1 それに悪いことはなにもしていないって、言いましたよね? 2 まあ、そう言いましたけど……。  私が罪を被って有罪になったんですよ。  誰のためにそんなこと?  とか、そもそもどういう経緯で秘書になったのか?  とか、次々と疑問が湧いてくるでしょう?  ふつうは。 1 誰のためって、それ言えちゃうんですか? 2 さすがに実名までは言えませんけど。 1 そうですよね。  で、そもそもどうしてアゼルバイジャン語なんて……。 2 いや、だからアゼルバイジャンはいまいいでしょう、どうだっ  て。  アゼルバイジャンは。  どうしてそちらに興味が行くんですか?  アゼルバイジャンの油田に仕事で訪ねたことがあるってだけで、  特に意味なんてないんです。  ただ単に、読めそうもない、かえって興味を引きそう、って程  度の理由ですよ。  べつにアゼルバイジャン語じゃなくても、ヘブライ語でもマダ  ガスカル語でもよかったんです。 1 あ、そういうことだったんですね。  なるほど、納得しました。  ヘブライ語にマダガスカル語か……。  お仕事がら語学に精通されているのでしょうね? 2 それほどでもありませんが……。 1 行動範囲も世界レベルでしょうから。 2 確かに飛び回っていました。  しばしば目的も知らされずにね。  読めない契約書にサインしたこともあります。  自分を殺さなければ出来ない仕事でした。 1 自らを犠牲にして、今なお自由を奪われた身というわけです  ものね。  さぞ恨んでいるでしょうね?  あなたを犯罪者に仕立てたその石油富豪でもある議員のことを。 2 恨もうにも対象が特定されないんです。  議員の一存なのか組織からの指令だったのか……。 1 早いところ抜け出した方がいいんじゃないですか? 2 いろいろと知り過ぎてしまったようですしね。  本当は口止め料だってもらいたくない。  こんなこともうやめたいんです。  でも拒否したら身の保障がなくなるでしょう。  1 勇気をもって清算して元の世界に戻った方がいいと思いますけ  どね。 2 可能性が僅かでもあればね。  かと言って逃げるわけにもいきません。 裏の世界には国境なんて関係ありませんから。 絶対に逃げ切れないでしょう。 1 じゃあどうしたいんですか?  そもそも何のためにこんな身の上話を聞かせたんでしたっけ? 2 単なる憂さ晴らしと思ってください。  さっきも言ったけど、飲めないんです。  でも最初で最後にします。  どうか、今まで聞いたことは、ちょっと重めの冗談だと流してく  ださい。     沈黙。 2 あ、あれ、もしかして来たんじゃないですか? 1 え。 2 ほら、あそこ。  違います?  バラ園の入り口のところ。  髪が長くて背の高い……。 1 あ、ああ……。     2、立ち上がり上手(もしくは下手)へ。 2 ちょっとこっちへ。  ここならちょうど木の陰になりますから。 1、2の傍らへ。 2 あの人ですか? 1 ……。 2 そうなんですか? 1 ああ、まあ……。 2 まあって、どうなんですか?  本当にあの人なんですか? 1 え、ええ……。 2 ちょっと遠くてよく見えないけど、綺麗な人みたいですね? 1 そうですね。 2 どうするんですか? 1 どうしましょうか? 2 どうしましょうかって……。  あ、まずい、いま見られたかも……。 1 いや、大丈夫ですよ。 確か彼女は近眼だったはずですから。 2 で、どうですか? 雰囲的に見て。 時間を間違えて来たのか、それともひやかしで来たのか、そこが  大事なわけでしょ? 1 そう、そこがポイントです。  それによってこちらの出方を決めるわけですから。     沈黙。 2 どう思います? 1 うーん、まだなんとも……。  あの、双眼鏡なんか持ってないですよね? 2 持ってるわけないでしょう。 1 ですよね。  いくら近眼でもこれ以上は近づけないし……。  あ、なんかやだなぁ。 2 どうかしました? 1 向こうにいるカップルが不審な目でこちらを見てたんです。 2 どこ見てるんですか。 1 そんなに怪しく見えるかな……。  あ、ベンチの裏に隠れましょうか? 2 もっと怪しいでしょ。 1 あれ、行っちゃった。 2 え。 1 例のカップルです。 2 だからどこ見てるんですか。 1 でもこれで集中できます。       沈黙。 2 わりと平然としているように見えるけど、本当に待ち合わせ時  間を間違えているかもしれないですね? 1 ええ、もしかするとね。 2 そうだといいですよね? 1 ええ、そうだといいですね。 2 ちゃんと見てます? 1 はい、ちゃんと見てますよ。 2 ちょっと、全部オウム返しじゃないですか。 1 ちゃんと見てますとも。  むしろ見惚れちゃいましてね  見るからにつり合わないと思われそうですよね。 2 なに他人事みたいなこと言ってるんですか。 1 いや、省みてるんです。  自身の身の程を客観的に。 2 まさかこの期に及んで怖気づいたんじゃないでしょうね? 1 確かに何事も丸腰で踏み込むのは勇気がいるものです。  私には絶対的な武器や自信があるわけでもないし。 2 だから策を練ったじゃないですか。  二時間も待っていたことを悟られないシナリオを。 1 そうでしたね。  逃げることも出来ない、かと言って事実を明らかにすることも出  来ないわけですからね。 2 え。 1 まして行きずりの人間相手に管を巻いていても仕方がない。  うん、踏み出すしかないんだ。 2 どうしたんですか? 1 自分自身にエールを送っているんです。  嘆くより動け。  現実と向き合え。  わが身を恨むな、前を向け。 2 なにかちょっとそのエール、耳が痛いなぁ。  もしかして遠回しに私のこと言ってません? 1 いえ、ひとりごとですからお気になさらず。  勇気をもって選べ。  行くか、戻るか。  成すべきか、成さざるべきか、そこが問題……。 2 成すべきでしょう。  今更そこで迷わないでくださいよ。 1 そう、成すべきでしょうね。  おっしゃるとおり。  正義を信じて臆せず進め、退路を探すな。  どうせ逃げ切れるわけじゃない。 2 やっぱり私に言ってません? 1 ついでだからあなたへのエールもと思って……。 2 いや、だから私のことはいまいいでしょう。  しかもついでってなんですか。  とにかく目下の問題はあなたが勇気を出すかどうかなんですから。  あんまりモタモタしてると……。  あ、ほら、時計を見てる。  早くしないと行っちゃいますよ。  帰っちゃったらもうどんな手も打てないんですよ。  どうします?  息せき切って出て行くか、それともここで長話をしていたって方  を……。  やっぱり長話の方が自然っぽくていいんじゃないですか? 1 ええ、長話のバージョンですね。  えーっと、なんて言えばいいんでしたっけ? 2 なんてって……。  たとえば、そう、ああ、ごめんごめん、待った?  さっきそこで昔の友達とばったり会ってさ、つい話し込んじゃっ  てね、とかですかね。 1 なるほど。  えーっと、悪い悪い、いま友達と話し込んじゃっててさ。  ついばったり会ったからさ。  待った?  なんか違うな。 2 友達とばったり会ったから、つい話し込んじゃったんですよ。 1 ええ、そう、友達と会ったから話し込んだんですよね。  あれ、私いまなんて言ったんだっけ? 2 いや、意味は伝わると思います。 1 ちょっと待って、えーっと……。  悪い悪い、さっきばったり昔の友達と会ったんで、つい話し込ん  じゃった。  待った? 2 ええ、いいじゃないですか。  それでいきましょう。 1 あ、そうか、悪い悪いじゃなくて、ごめんごめんでしたね? 2 だから細かいことはいいから早く行きましょうよ。 1 あ、また向こうで見てる……。  べつのカップルです。 2 気にしてる場合ですか。 1 なんか笑ってたみたいだし……。 2 あのね、あなたにいま必要なのは、踏み出す勇気、それだけで  す。 1 わかってますってば。 2 わかってないでしょ、ちっとも。  あ、ほら、またこっちを見た。  本当に近眼なんでしょうね? 1 あなたの声が大きいからじゃないですか? 2 あなたが出させてるんですよ。  もう。 1 だから声が大きいってば。 2 じゃあ行きなさいよ。  もっと大きい声出しますよ。  ほら、出て行って。 1 ちょっと。 2 ほらほら。          2、1を押し出そうとする。 1 駄目ですよ。 2 なにが駄目なんだ。  行きなさいって。 1 そんなに言うならあなたが替りに行ってくださいよ。 2 なんで私が。 1 あなたの方が度胸があるし、口だって上手いんだから。 2 そういう問題じゃないでしょ。 1 お手本見せてくださいよ。 2 おかしいでしょ。 1 あ、笑ってる。  ほら、さっきのカップルが。 2 わかったよ、じゃあ行ってくるから。 1 え。 2 聞いてみますよ私が。  ここで何時の約束だったのかをね。 1 いや、それはそれでちょっと……。 2 じゃあ。 1 ちょっと待って。 2 なに? 1 おかしいでしょ。 2 あなたが言ったんだよ。 1 とにかくやめてください。 2 らち明かないんだよ、このままじゃ……。     二人、揉み合う。     やがて……。 1 あ。  あれ。 2 え。  あ。     沈黙。 1 ははは。 2 はははって……。  なにこれ? 1 そういうことみたいです。 2 はあ?  どういうことですか?  べつの人と行っちゃったじゃないですか。 1 やはり素敵な人のところにはそれに相応しい待ち人が現れるも  のなんですね。  まるで自然の摂理のように。  羨ましい。 2 いやいや意味がわからないんだけど。 1 どうやら人違いのようです。 2 嘘でしょ? 1 ええ、そう、嘘なんです 2 嘘! 1 はい、申し訳ありませんけど。 2 え、それってどこから? 1 ほぼ最初から。  悪気はないんです。  恋人と待ち合わせかって聞かれたので、つい、話の流れって言う  か、期待に応えてって言うか……。 2 あ、ちょっと、なに、それじゃあまるで私のせいみたいじゃな  いですか。 1 そうとばかりは言いませんが……。 2 少しはあるんですか。 1 まあ、気にしないで結構ですから。 2 してませんよ。  もし私が振り切って出て行ってたらどうするつもりだったんです  か? 1 でもそれがきっかけで予期せぬ方向に発展したり……。 2 しやしません。  良からぬ方向にしか。   待ち人が現れて体裁悪いことこの上なしだ。 1 そこは私が割って入って、男らしく人違いだったと釈明して差  し上げますよ。  2 どこが男らしいんですか。  言い訳するだけでしょ。  恋人を待つどころか、待ち合わせ自体が嘘だったとは。  二時間待ったなんて、まったく……。 1 嘘と言われると少々抵抗を感じますが……。 2 違うんですか? 1 まあ、せめて妄想と言った方が……。 2 一緒だよ。  散々思わせぶっておいて。  なにが、彼女は近眼ですから、だよ。 1 いや、でもすべてフィクションってわけでもありません。  私事で恐縮ですが、まだ完全には立ち直れていないんです。 2 え。 1 引きずっているんです。  待って待って、待ちくたびれて、それで……。  さっきと同じです。  かげから様子を窺っていました。  もともと来てくれる確証もないっていうのに……。  ここじゃありませんけどね。  まして今日でもありません。 2 なんの話です? 1 二時間待ったのは本当なんですよ。(座る)  早い話がふられたんです。  恥ずかしいことに。  だからこんな妄想を、と言うかシュミレーションを……。 2 シュミレーション? 1 もしあの時あの人が来ていたら自分はどうしていただろうって  いう。  それが引っ掛かっていたんです。  でもやっぱり出ていけなかったでしょう。 2 実際のところ来たんですか? 1 いいえ、来ませんでした。  もし来たとしてもかげに隠れたままの挙動不審者です。  それが検証されたことで、ようやく折り合いがつきました。  まことにご迷惑をお掛けしました。     1、深々と頭を下げる。 1 どうか……。 2 いや、まあ、何かの役に立てたのなら……。  1 理想が高すぎたんでしょう。  あらためて身の程を知りました。  それにしてもまさかこんなプライベートな話をするとは……。  しかも勤務中に。 2 勤務中? 1 正確にはまだ勤務時間前でしたが……。 2 失礼だけど、あなたの職業を聞かせてもらっていいですか?     1、腕時計を見る。 1 ええ、いいですよ。  刑事です。 2 は?  刑事?  はは、まさか妄想の続きじゃないですよね? 1 ええ、まだ日が浅いせいか人を待ってるとつい思い出してしまっ  て……。  でももうおセンチなことばかりも言ってられません。 2 誰を待ってるって? 1 いや、待つまでもなく、こうして出会えたわけです。 2 え。 1 まあ、正直言うと、追いかけてきたんですけどね。 2 私を?  どうして? 1 お話を伺いたくて。 2 またまた、そんな……。  いま思いついたんじゃないでしょうね?  あなた一体なんなんです? 1 ですから刑事です。  よくいるふつうの。 2 私を尾行してきたって? 1 いえ、人に聞いてきました。  人というのは、あなたのお住まいの階下の方々です。  コーヒースタンドを営んでいる年配のご夫婦に。  上の階に小説家が住んでいるんだって教えてくれました。  海外ではとても評価されているって。 2 口止め料で暮らしているなんて言えませんからね。 1 まるで自分たちの子供のように誇らしげに話してくれました。 2 ……。 1 散歩だろうって。 気分転換にこの公園にいらして鳩に餌をやったりするんですって  ね。     2、貼り紙を剥がす。 2 今日は鳩に餌をやる代わりにこんなものを仕掛けてみました。 1 ええ、まんまと掛かりました。 2 いえ、むしろこちらの方が。  飛んで火にいる夏の虫でした。 1 まるで罠の掛け合いですね。 ただ、こちらから本気で仕掛けるわけにはいきませんでした。 2 どういうことです? 1 徹夜明けだったので三時まで非番なんですよ。  規則で、非番が明けるまで職務上の質問は出来ないんです。  だから三時以前に私に話されたことは調書には残しません。 2 いま何時ですか? 1 三時を少し回りました。 2 非番の人がコーヒースタンドで私の居所を探っても構わないの  ですか? 1 私からはなにも尋ねていません。  ただのコーヒースタンドの客でしたから。  彼等が話してくれたんです。  あなたが三時前の私に対していろいろと話してくれたように。 2 ははは。(座る)  ド素人かと思ったらプロ中のプロだった……。  笑えます。  もちろん私にです。  で、私の容疑は? 1 まだ被るつもりですか? 2 え。 1 あなたじゃありません。  件の議員の方です。  あなたを犯罪者に仕向けた。 2 もう全部終わってるじゃありませんか? 1 いいえ、もっと大きな疑いが新たに浮かんでいます。  今度は秘書やらお抱えの会計士やらがやったなんてことが通用し  ないくらいの。  つまり彼の背後で糸を引いている組織にも徹底的に捜査の手が及  んでいきます。 2 ……。 1 おっしゃったようにあなたは知り過ぎたのでしょう。  でもそれが大きな流れを変える力になるかもしれません。 2 流れを変える力か。  流されて、翻弄され続けたこの私がね……。 1 弁護士志望だったそうですね。 2 そう、過去形です。 1 まだやり直せます。  まずはスタート地点に立たなきゃ。 2 そう簡単にいくかな……。  ところで最初から私のことを分かっていたんですか? 1 じつは、あらかじめ顔写真は見せられていたんですが、あなた  から口止め料のくだりを聞くまでは半信半疑でした。  もしかして痩せましたか? 2 あ、分かりますか?  ずいぶん絞ったんですよ。  毎朝この外周を走って。 1 へえ、見習わなきゃ。  あ、さっきの栄養剤、あれやっぱりもらえますか?  ダイエット効果があるって言ったでしょ? 2 ああ、でも必要でしたか? 1 もう少し全体をすっきりしたいんです。  やっぱり見た目って大事でしょ? 2 理想を下げずに自分を上げる。  きっともっといい出会いがありますよ。 1 ところで、あなた恋人は? 2 え。 1 あ、こんなこと聞くものじゃないですよね? 2 まあ、ふつうはね。  でも幸い、我々は少々ふつうじゃない。  なんでも話しますよ、刑事さん。 1 いえ、もちろん刑事としてではなく。  ただの興味本位ですから。 2 でもいいんですか、そんな話。  もう三時過ぎてますけど。 1 ええ、なんなら三時半からにしましょうか?  休憩を先にとることにしてね。 2 恋人はいませんよ。  まあ恋人候補ならいますけど。 1 候補?  へえ、どんな人なんです? 2 どんなって……。   じつは、わりと近くにいるんです。 1 え。 2 レストハウスの横の移動販売でドーナツを売ってる人です。 1 なるほど。  鳩の餌やりだけじゃまるでお年寄りの散歩ですものね。 2 それにしてもするかな、いくら勤務前だからって、刑事があん  な身の上話を……。 1 まったく。  背中を押してくれたあなたの勇気と優しさに感謝します。  今度は私があなたの背中を押せたらいいのですが……。 2 ……。 1 それにじつは私もアルコールがまったく飲めないんですよ。 2 じゃあコーヒーでもいかがですか?  ちょっと待っててください。(立ち上がる)  買ってきますから。 1 申し訳ない。  あ、もしかして、そのドーナツを売る店で? 2 ええ。 1 だったら私もご一緒します。(立ち上がる) 2 いや、待っててください。  すぐ戻りますから。 1 いいでしょ、ちょっとくらい見ても。 2 いいけど、見てどうするんです? 1 どうもしませんよ。 2 恋人ならともかく、ただの候補なんですよ。 1 だったら尚更かくすことないじゃありませんか。 2 それはまあ、そうだけど……。 1 ちなみにその彼女のことをなんて呼んでいるんですか? 2 だから彼女じゃないんだってば。  言わなきゃよかったかな……。 1 行きましょう。 2 え、ええ……。  じゃあこうしておきます。 2、ベンチに貼り紙をする。 1 公共物を無許可で占有すると罰せられますがね。 2 ごもっともです。  でも、まあ、アゼルバイジャン語ですから。 1 いえ、たとえヘブライ語でもマダガスカル語でも。  それに今度罠に掛けるならもっと素敵な出会いを求めたいもので  すね。 2 まったくもってごもっとも。  その時は眺めの素晴らしいレストランでも予約をしてね。  そうなるよう努力しましょう。  お互いにね。     二人、苦笑。     そして去る。     ベンチに明かりが残る。             ‐了‐