焦熱の砂漠へ             ソンブレロ     緑豊かな都市型公園。     初夏の午後三時頃。     ベンチに男が一人。     手にはペンと小ぶりのノート、思案     しながら時折ペンを走らせている。     やがて女が現れ、ベンチのそばで立 ち止まる。 女 こちらよろしいかしら? 男 え、ええ。     男、ベンチの端に座りなおす。 女 ごめんなさい、木陰になっているのってここだけなので。 男 ああ、そうですね。 女 ベンチはいっぱいあるのに……。 男 構いませんよ。  どうぞ。 女 ありがとう。(座る)     女、バッグの中から出した手帳に目 を通していたが、やがて男の手元に 興味が移る。     男、その視線に気づき、両者目が合 う。     女、微笑みながら軽く会釈する。          女、一旦自分の手帳に意識を戻すが、 再び男の手元を見つめる。     男、その視線に気づき、再び両者目 が合う。 女 素敵な字ですね。 男 え。 女 味わいのある文字を書かれるのですね。 男 そうですかね……。 女 言われたことありませんか? 男 ええ、特には。 女 ごめんなさい、覗いたりして。 男 いえ……。     男、作業を再開する。     女、その様子を覗っている。 女 お仕事ですよね? 男 はあ、まあ。 女 小説ですか? 男 いいえ、記事と言うか、レポートみたいなものです。 女 いつもこういうところで書かれるのですか? 男 まあいろいろですね。 女 見て頂けますか、これ。     女、手帳を差し出す。 女 こんな字なんですよ。  私の書く文字って。 男 はあ……。 女 どうでしょうか? 男 どうって? 女 上手くもないし個性も感じられないと思いません? 男 そうかな……。 女 誰の目にも印象を残しそうにない字だわ。  だから羨ましいんです。  あなたのような文字を書ける人が。     男、返答せず作業を再開しようとする。 女 もし出来たら、なにか書いて頂けませんか? 男 なにか? 女 どんな言葉でもいいから、その素敵な文字で一言頂けません か? 男 あ、いや……。 女 ここにお願いします。     女、手帳の空白のページを開いて男 に手渡す。 男 なにを書けばいいんだろ……。 女 だからなんでも。  好きな言葉でも歌でもいいし。 男 急に言われてもね……。 女 なんでもいいって言ってるのに? 男 いや、悪いけど今忙しいんですよ。 女 そうですか、ごめんなさい。     女、男から手帳を受け取る。 女 待ちます。 男 え。 女 いま忙しいんですよね?  だから待ってます。     沈黙。 男 参ったな。 女 コーヒーでも買ってきましょうか?  気分転換になりますし。 男 いや、結構です。    男、傍らのバッグにノートとペンを仕 舞う。 男 そろそろ行かなきゃ。 女 また戻ってくる? 男 いや……。 女 じゃあ私も行こうかな。  構わない? 男 どこへ? 女 あなたと一緒に。 男 なに言ってるの。 女 もう邪魔はしないわ。 男 とにかく忙しいので……。 女 じゃあひとつだけ聞かせて。  さっきの事件のことなんだけど……。 男 え。 女 あなたはどう感じたのかなって……。 男 事件……? 女 そう、あの事件。  女の人の窃盗、詐欺事件。 男 さっきの裁判を傍聴してたんですか? 女 ええ、あなたのすぐ斜め後の席で。 男 なにかあの事件と関わりでも? 女 なにもないわ。  あなたは記事を書くためだったのね? 男 ああ、まあ……。 女 あの人が言ってたことってきっと理解されにくいんでしょ うね?  聞いててそんなふうに思っちゃった。 男 あの人? 女 被告の女の人。  どうして何人もの人を欺いてまでお金が欲しかったのかって 検察の人が聞いたでしょ?  そうしたら彼女、ぬいぐるみたちが暮らす部屋をもっと広く て快適なものにしたかったって。  ペットならまだしも、ぬいぐるみって……。 男 ああ、もし本気で言ってるのならね。 女 本気じゃない可能性って?  なんのために? 男 精神が病んでいるように見せたいとか……。 女 じゃあ、(手帳を見ながら)ニーナは臆病で繊細だから個 室と専門のシッターが必要だとか、イリーガやソフィアは活 発で好奇心旺盛だから、毎月のように離島に船旅をさせなきゃ ならないなんて言ってたのもそういう理由?  責任能力がないくらい精神が病んでますっていう主張? 男 かもしれない。 女 そう……。  私、彼女のこと、ちょっとかわいそうだなって思ったのよ。  誰にも気持ちをくみ取ってもらえずにひとりぼっちで。  でもそうよね、あなたの言うことが正しそうだし、きっとみ んなも同じことを思ったのね。  ということは、彼女に同情した私だけが本当のひとりぼっちっ てことなのかしらね? 男 さあ、あくまで想像だから。 女 ねえ、あなたの書いた記事はどこに載るの?  新聞? 男 いや。 女 じゃあ雑誌とか? 男 まあ……。  ただ、専属の記者じゃないし、記事が採用されるかどうかは わからないけど。 女 もし記事が載れば、あなたの名前も出る? 男 一般的には出さないから……。 女 へえ、でもいいわね。  名前は残らなくても自分の書いた文章が載るって。  自分の分身みたいね。 男 さっきの裁判と関わりはないって言ってたけど、あの事件  に興味があったとか? 女 いいえ、今日はじめて知ったの。 男 じゃあ裁判をよく傍聴するの? 女 それもまったくはじめて。 男 へえ……。  あ、じゃあそろそろ……。 女 行くの? 男 次の予定があるので。  さようなら。 女 あなたについていったのよ。  さっきの裁判は。 男 え。 女 あなたの後をついていっただけ。 男 はは、まさか……。 女 本当よ。  地下鉄の構内のコーヒースタンドで朝食をとったでしょ?  知ってるの。  スクランブルトーストとエスプレッソ。  出口は6番のAから地上に出たわ。  階段を上がってすぐ正面の露店でミネラルウォーターを買っ  たのよね。  どう? 男 どうって? 女 違う? 男 いや、合ってる。 女 でしょ?  もっと遡れるのよ。  地下鉄だけじゃなくてもっと前も。 男 どこまで? 女 あなたの家まで。 男 なんだって!? 女 今朝エントランスを出てすぐ戻ったでしょ?  なにか忘れ物だったのかしら?  ハンカチ?  それとも手帳とか?     沈黙。 女 ね。 男 どうしてそんなこと……。 女 もちろんいつもじゃないわ。  今日はたまたま。  とっても早く目が覚めちゃったせいもあって、ふらっと足が  向いたの。 男 わからないな。  本当の目的はなに? 女 そう……。  もう少しあなたのことが知りたくなっただけ。  ねえ、ここでお仕事続けてもらえないかしら。  さっきは話しかけちゃったけど今度は大人しくしてるから。 男 冗談はよしてくれないか。 女 実はあなたに声をかけるつもりはなかったのよ。  ずっと傍観しているつもりだったわ。  でもね、我慢できなくなっちゃったの。  それにね、考えてみたら私もそれほど時間があるわけじゃな  いなって思ってね。 男 どこかで会ったかな? 女 わかる? 男 いや……。 女 昔、ちょっとね。 男 いつ? 女 だから昔よ。 男 どこで? 女 私の心の中でってことにしておいて。  あなたの視界に私は長居したことがなかったし、記憶に残る  ほどの印象も与えてはいないから。 男 じゃあ思い出しようがないね。  で、なんなの?  急になんなんだろう? 女 急でもないわ。  三ヶ月くらい前かしらね。     沈黙。 男 そういうわけか……。 女 なにが? 男 ここ三ヶ月くらいの間に得体のしれない花が届いたりした  けど……。  そうだったのか?  家族の前では平静を装っていたけど実際気味が悪くて仕方な  かったんだ。  どうしてあんなことを……。 女 本当ね。  ごめんなさい。  どうかしてたの。  なんであんなこと……。 男 僕がキミを傷つけたことがあったかな?  少なくともそういう覚えはない。 女 そのとおりだわ。  あなたはなにも悪くない。 男 じゃあもう二度とこんなことしないでもらいたいんだ。  約束してくれるかな? 女 ええ、じゃあ、その代わりってわけじゃないけど、今日の  ところは大目にみてもらえない?  もう話しかけないわ。  黙ってる。  だからまたここでお仕事を続けてもらえない? 男 いい加減にしてくれないか。 女 もう邪魔しないから。 男 ほかに仕事があるんだ。  じゃあ……。 女 リタちゃんたちは元気? 男 え。 女 リタちゃんとリナちゃんだったわよね?  リタちゃんが妹さんよね? 男 一体どこまで……。 女 偶然知ったの。  二人とも元気にしてるのかしら?  特にリタちゃんのことが気になるわ。  だって、ほら。  ね。 男 なにを知ってるって? 女 ほら、だから……。 男 リタのなにを? 女 目のこと。 男 どうしてそんなこと! 女 だから偶然……。 男 なにを言ってるんだ。  キミは一体誰なんだ? 女 ZQR0049486。 男 なに? 女 名前言ったってわからないと思って。  だから登録番号で言ったの。 男 登録? 女 そう、私の登録番号。  だったら分かるんじゃない?     沈黙。 男 それって、もしかして……。 女 ええ、そう。  特例申請したドナーって、私なの。  だけど本人はもちろん、その家族にも絶対に連絡も面会も出  来ないって釘刺されていたのに……。  いろいろごめんなさい。 男 あ、いや……。 女 でもいつも気になっていて、それで、余計なことばかり考  えて、考えてるだけじゃなくて勝手なことまで……。  無記名でお花を送ったり、本当に迷惑だったと思うわ。 男 いえ……。 女 精神的に不安定な状態が続いちゃってて、そのせいで……。  あ、だからと言って責任能力がないって言いたいわけじゃな  いの。  本当に……。 男 え、ええ、もちろん。 女 ドナーの特例申請は善意のつもりよ。  気味が悪かったかもしれないけど……。 男 いえ、そんな……。 女 今はこれでもずいぶんまともな方なの。  曲がりなりにも会話になっているし。  だから思い切って声をかけたの。 男 はい。 女 でも、偶然と言ったのはある意味本当よ。  もともとドナー登録はしていたんだもの。  私でも誰かの役に立てるかと思って。  で、偶然見かけたの。  あななたちが手をつないで歩いているところを。  走ってるバスの中からね。 男 バスの中から……? 女 そう、だから半信半疑だったけど、咄嗟にバスを降りて……。  でもその後に確信に変わったわ。 男 つけてきたわけですか?  家まで。 女 ごめんなさい。  それから、私、勝手に手を尽くして……。 男 調べた? 女 ええ、自分でも調べたし、人にも頼んだわ。  プロの、そういうことを依頼できるところにもね。  リタちゃんの目の病気のこととか。 男 それで特例の申請を? 女 そう、私はもう駄目だけど、でも役に立てると思って……。  気持ちの方は病んでいるけど、それ以外は健康なんだもの。  規程どおり定期的に診てもらっているしね。  もちろん角膜もね。  だから安心して。 男 はあ。 女 あ、うぅん、安心じゃなくて……。  体は大丈夫だけど、心が大丈夫じゃないからそういう意味で  安心して、って言うか、期待して。  私って本当に長くはないと思うわ。 男 ……。 女 ごめんなさい。  そんなこと言われても困るわね。 男 いえ、その、どうお礼を言っていいのか……。 女 うぅん、そんな。  こんなふうに勝手に会うなんて絶対にいけないことになって  いるのに、それを破っちゃって……。  でも私、いま本当にこれでもまともなの。  いつ発作が起きるかわからないし、そうなったら制御できな  くなるから。  でね、こんなものいつも持ってるの。     女、手帳に挟んでいた封筒を出して見せる。 女 遺言状なの。  正と副があって、正の方は私の部屋の机の上に置いてあって、  これは副の方。  冒頭に特例申請のことを記してあるわ。  それから私の病状もね。  不要な検視なんかされてリタちゃんへの移植を遅らせたくな  いもの。 男 あの……。 女 なに? 男 ひとつ聞いていいですか? 女 ねえ、私に対して変に恩を感じたりしないでね。  私はリタちゃんのために死ぬわけじゃないから。  決して誰かのために死ぬんじゃない。  死ぬ時がきたら死ぬってだけだから。 男 はあ。 女 だからへりくだることはないわ。  ましてルールを破ってあなたに会いに来てるんだもの。 男 いや、その……。  ところで、僕たちが最初に会った場所って学校みたいなとこ  ろかな? 女 ええ、そう、学校そのものよ。 男 それはつまり僕の勤務先でってこと? 女 いいのよ、わざわざ思い出そうとしなくても。 男 一年ちょっとしか在籍していなかったから、その期間のこ  とはわりと憶えているんだけど。 女 本当にいいの。  記憶にあるはずないわ。  あなたの授業を受けたこともないし、それに私はあの学校創  設以来おそらく一番目立たない生徒だったもの。 男 それほど大人しかったってこと? 女 大人しくもなく、活発でもない、すべてにおいて平均的だっ  たから。  おかげでひと月が何百日もあるみたいに長く感じたわ。 男 平均的ってつらいのかな? 女 一年中どんより空のような心持ちで、毎日に楽しみという  ものを見出せなかったの。  でもそれを周りに悟られるのが嫌で、擬態する生物みたいに  集団の中に紛れ込んでいたわ。  可もなく不可もない生徒役に徹して。 男 それはストレスがかかったろうね。  僕は結局駄目だった。  たった一年しかもたなかった。 女 つらかったの? 男 息切れしちゃったんだ。  季節が一回りしかしていないのにもう数十回も回ったような  気がして……。  これをあと何十回も繰り返す自信がなかった。 女 頑張りすぎたのよ。  少し休んで立て直せば、また走れたかもしれないわ。 男 息切れだけじゃない、燃料も尽きて、もう燃やせるものが  なにもなかったんだ。 女 燃料を撒き散らしながら走ってたのかもね。  私とは正反対だわ。 男 いや、むしろ似てるのかもしれない。  生徒の気持ちに向き合って、耳を傾け、親身になって考える、  そんな教師を演じてたんだ。 女 演じてた?  努めてた、の間違いじゃなくて? 男 うん、努めてたつもりだった。  でも段々どっちだかわからなくなっていったんだ。  自分を疑うようになった。 女 あなたもきっと自意識過剰屋さんなのね。  だから人一倍消耗するのよ。 男 そうかもしれない。  そんな自意識とうまく折り合えるようになったのは、もっと  ずっと後だった。  学校にいたときはそれが出来なくて、だからリタイアしたん  だ。     沈黙。 女 それで小説を書くことにしたんでしょ? 男 どうして知ってるの? 女 みんな知ってたわよ。  すぐに噂が広がったもの。  あの先生は小説家になるために辞めたんだって。 男 へえ。 女 でも本当に書いたでしょ。  ちゃんと本にもなったじゃない。 男 ああ、一回だけだけど。 女 私、ちゃんと買ったし、ちゃんと読んだわ。 男 それはありがとう。 女 もう本は出さないの? 男 出版社が見込んだ売上の最低ラインにも届かなかったしね。 女 また書いてみたら? 男 これでもずいぶん書いたんだ。  でも駄目だった。  チャンスは結局あの一回だけだった。 女 あ。 男 え。 女 う……。 男 どうかした?     女、胸に手をあてる。 男 大丈夫? 女 ええ。 男 いや、大丈夫じゃなさそうだね。 女 よくある発作よ。  気持ちの問題なの、これ。 男 え、でも、あの、どうすればいい?     女、咳込む。     やがておさまるが息づかいが荒い。 男 顔色がよくないね。  苦しい? 女 うぅん、平気よ。 男 そうは見えないけど。 女 本当よ。 男 話しかけない方がいいね。     沈黙。 女 ごめんなさいね。  もう落ち着いたわ。 男 よくあるの?  こういうの。 女 ええ、いまのはまだ軽い方だけどね。 男 気持ちの問題って言ったけど……。 女 そうよ、気持ちのせいなのよ。  とても厄介な気持ちのね。     女、バッグから小箱を取り出し、男 に手渡す。 女 これ、持ってて。 男 なに? 女 薬よ。  もっと発作がひどくなったら飲ませていただけない?  お水はいらないから、手渡して欲しいの。  お願いできる? 男 ひどくなったらって……? 女 まだ飲みたくないの。  飲めば発作が治まる代わりに思考が低下して話ができなくな  るから。  体温が上がって頭がボーっとして、体も重くなって、まるで  炎天下を何時間も歩き続けているみたいになるんだもの。 男 ……。 女 だから、このままもう少し話をしたいの。 男 ああ……。     男、小箱を開けて見る。 男 発作の薬はどれ? 女 どれでもいいのよ。  みんな同じだから。 男 でも、色も形も違うけど……。 女 あなたが選んでくれたものを飲むわ。  どの薬でも。  何錠でも。  ねえ、話の続きをしましょうよ。  お願い。  今ならまだ私、まともに話せるもの。  あ。     女、胸を押さえて屈みこむ。     やがて咳込む。 男 もう薬を飲んだ方がいいんじゃないかな?     女、激しく咳込む。 男 飲もう。  苦しそうだし。 女 いらない。  さっきの話の続きをお願いよ。 男 話?  なんだっけ? 女 ほら、あなたが見つけたお店での話よ。 男 お店だって?  そんなこと言ったかな……。 女 なに言ってるのよ。  続けて。  ほら。 男 えーっと……。 女 砂漠に行くときに見つけたんでしょ? 男 砂漠? 女 そう、砂漠の手前にあったお店。  ヨーグルトを売ってるお店だったわよね?  そこにあなたが立ち寄ってなにか忠告を受けたんでしょ?  その話よ。 男 ああ……。  そう言えばそうだったっけ。 女 思い出した?  で、どんなことを言われたの? 男 うん、えーっと……。  ああ、そう、気をつけろって。  この先はもうなにもない砂漠だって。  焦げつくような熱さの。  確かそういう……。 女 そう、ちゃんと気をつけた? 男 うん、気をつけたよ。  女 じゃあ焦げつくような砂漠を歩いたのね? 男 うん、あ、いや行ってない。  結局やめたんだ。 女 そう、その方がいいわ。  もう危険なところには行かないでね。 男 ああ、もう行かないよ。 女 絶対よ。  私、嫌な予感がするの。  あなたが出掛けていくと。  なにか悪いことに出くわすんじゃないかって。 男 済まなかったね、心配かけちゃって。 女 だから自分のためにしたいお願いを全部あなたのために使っ  たの。  どうか無事でって毎日お祈りして。 男 ありがとう。  おかげで無事だったよ。 女 あ、うぅん、恩をきせるようなこと言っちゃったわね。  ごめんなさい。 男 いや、じゃあ今度お詫びにその埋め合わせをするよ。 女 埋め合わせ?  それってどんなことをしてもらえるの? 男 そうだね……。  僕に出来そうなことならなんでも。 女 なんでも?  本当にどんな望みでも? 男 うん、僕に出来そうなことなら。 女 出来ると思うわ。  どれか一つくらいなら。 男 どれか?  そんなにたくさんあるの? 女 うぅん、どれか一つだけでいいの。  そうね……。  三つ、その中から選んで。 男 三つ? 女 ええ、聞いてもらってもいい?  それともいつか埋め合わせの時が来るまで駄目? 男 いや、聞くだけならいつでも構わないよ。 女 じゃあ、一番目の希望はね……。  あなたに私を殺してもらうこと。 男 殺す? 女 そう、あなたが私を。 男 どうやって? 女 それはお任せするわ。  出来れば優しく殺して欲しいけど。  私を殺して、その後であなたも死んでくれたら一番うれしい  わ。  どう?  難しい? 男 うん、まあ、そうだね……。  ちょっと難しいね。 女 ちょっと? 男 あ、いや、かなり難しいかな。 女 そう、かなりね……。  じゃあ二番目の希望も聞くだけ聞いて。  私があなたを殺す。  そして、そのあとに私も死ぬ。 男 ……。 女 あ、でもこれはあなたはなにもしないんだから希望の順番  としては三番目にするわ。  繰り上げの二番目いきます。  あなたが私を殺す。  ただそれだけ。 男 それだけ……? 女 一番目とちょっと違うでしょ?  あなたは今まで通りふつうに暮らすの。  何事もなかったかのように。  家族に囲まれてふつうに。  どう?  叶えられそう? 男 いや、それも……。 女 難しい?  かなり? 男 うん、僕には荷が重すぎるよ。  人を殺した後にふつうに生活するなんてとても出来そうにな  いからね。 女 そうね、そうかもしれない。  あなたの気持ちをまったく考えずに……。  自己中心的よね。  リタちゃんの目が治って、それでみんな幸せになれると思っ  たの。  私も残れる。  幸せな家族の一部分として。     沈黙。 男 もしかして……。  キミは僕のことが憎いの? 女 どうしてそんなこと聞くの? 男 いや、べつに。  ごめん。 女 憎くもないし、愛してもいないわ。  そういうんじゃないのよ。 男 じゃあどういうんだろ?     女、激しく咳込む。 女 私ね、本当に心配してたのよ。  嫌な予感がしてね。  ずっとお願いしてたのよ。 男 うん、わかった。  わかったよ、ありがとう。     女、顔を伏せて激しく咳込む。     男、手を差し伸べようかと迷ってい るが、やがて女が顔を上げる。    男 汗かいてるね。 女 でも落ち着いてきたわ。 男 薬、飲まなくていい? 女 まだ平気よ。  でももっとひどくなったら無理にでも飲ませてね。 男 無理にでも? 女 ええ、私、無意識で抵抗するかもしれないから口に押し込  んでくれないかしら?  お願い。 男 あ、ああ、わかった。 女 赤と黄色のカプセルよ。  間違えないでね。 男 え。  赤と黄色……? 女 もう忘れたの?  さっき説明したじゃない。  急を要するときは赤と黄色、それ以外のときは黄色だけって。 男 ああ……。  そうだったね、ごめん。  じゃあ緑と青のカプセルは? 女 精神安定剤よ。  緑は、赤や黄色の薬を服用した二時間後に飲むの。  更にその二時間後には青のカプセルを。  間違えないでね。  大変なことになるから。 男 大変って? 女 効能がぶつかり合って気絶、とか。  最悪の場合は意識が戻らないって……。 男 十分気をつけるよ。 女 ねえ、ついさっきあなたから興味深いことを聞いたような  気がするんだけど……。 男 興味深い?  なんのことだろう……。 女 とても遠くへ行ったんでしょ?  その旅先で誰かに出会って……。 男 ああ、そう、僕が忠告されたって話かな。 女 忠告……? 男 僕が砂漠の手前の店に入って、そこで忠告をうけてさ、そ  れについてキミが興味を示したんだ。 女 そう、そうだったかも……。  でも、どうして砂漠の話なんかに……? 男 ほら、以前僕が書いた本について話していたからじゃない  かな。 女 ああ、あの砂漠の話ね。  ねえ、あの本ね、もう本屋さんでは売ってないのね? 男 ああ、とっくに絶版になっているからね。 女 でもいつだったか古本屋さんで見たわ。  嬉しくなっちゃって買ったのよ。  だって古本だけど私の持っているのより綺麗だったんだもの。  それに誰かが買って読んだんだなって思ったら、それも嬉し  かったしね。  そう思わない? 男 まあ、そうだね。 女 そんなに嬉しくもなさそうね。 男 いや、ただ、ちょっと思い出したくないって言うか……。 女 どうして?  いい本だったと思うけど。 男 内容はともかくあんまりパッとしなかったしね。 女 ねえ、角膜はね、べつに死ななくても移植出来るじゃない?  でも、こんな状態で、これ以上迷惑かけたくないの。  目が見えなくなったら今よりももっと誰かの手を煩わせるじゃ  ない? 男 誰かって? 女 誰って、特定の誰じゃないの。  今よりも多くの人ってこと。 男 ああ……。       女、ふいに目を閉じる。      男 どうしたの?  具合悪い?     沈黙。 男 大丈夫なの?  ねえ。  苦しい?       男、女の肩を軽く揺さぶる。 女 ああ……。 男 大丈夫? 女 あ、いえ……。  ちょっと眠くなっちゃって。 男 眠いだけ? 女 ええ、いま何時ですか? 男 三時、二十分。 女 そう。  きっと薬が効いたんです。 男 薬が切れた? 女 いいえ、薬が効いてきたって言ったんです。  今日はちょっといつもと違う時間に飲んだので。 男 それってこの中の薬? 女 あ、その箱、どうして? 男 キミがさっき僕に預けたんだよ。  いざとなったら飲ませて欲しいって。  返した方がいいかな? 女 あ、ええ、でもごめんなさい、あらためてお願いしてもい  いですか?  ちょっと重い副作用があるのでなるべく飲みたくないんです。  だからもしまた発作が起きたら無理にでも飲ませて頂けません  か? 男 それは構わないけど……。  さっき、飲み方を間違えると危険だって聞いて……。  えーっと、急を要するときは赤と黄色で、その服用から二時  間後に緑、更に二時間後には青。  合ってますか? 女 その通りです。  本当にごめんなさい。  薬の効き始めくらいが一番不安定なんです。  ちょうど、ついさっきあたりまでが。  きっと私、今はまともなのって言ったと思うんですが、自分  でまともって言っているときが 一番まともじゃないんです。  まるで酔っ払いみたいですけど。  ふふ。  男 あ、そうだったんだ、はは。  今は具合が良さそうですね。  顔色もさっきと違うし。             女 ええ、大分落ち着きました。  でも、さっきまでの私も、自分の心理の深いところにあるも  のが出るだけで、結局は全部私ですから。  もしまた私がなにかご迷惑を掛けたりしたらと思うと気が滅  入ります。 男 さっき、僕の授業は受けたことがないって聞きましたけど、  なにか接点はあったんでしょうか? 女 接点……。  何度か目が合ったってことでしょうか。 男 え。 女 あの頃の私って、いつもみんなの中にうまく紛れ込んでい  たつもりでしたけど、あなたにはそのことが分かっていたの  かなって……。  課外授業でミュージカルの舞台づくりをさせてもらったのを  憶えていらっしゃいますか? 男 ああ、二年生全員でね。  群衆のエキストラとか、コーラス隊とかって、プロの舞台の  サポートをしましたっけ。 女 ええ、本番の前夜にリハーサルをしましたよね?  味わったことのない緊張感があって、みんな真剣に、でも楽  しそうに取り組んでいました。  私は裏方だったけど、それなりに一生懸命役割を果たしてい  ました。  でも時々気が抜けちゃうことがあるんです。  ふと気づくと、あなたの視線が私に……。  それで、私、慌てて楽しそうに振る舞ったんです。  何とか誤魔化せたかなって思いながら。 男 ……。 女 声をかけて頂いたのは一度だけ。  本番の終演後です。  みんな解放感や充実感に溢れていて、感極まって泣いている  子もいました。  そんなふうに感動を分かち合っている中で、不意に「楽しかっ  た?」って。  あなたに。  そのときも私、ちょっと油断しちゃってたんです。  しまったって思ったら、咄嗟に笑顔が作れなくて、それでつ  い「今日は歯が痛くて」って言い訳したんですよ。 男 そう、申し訳ないけど……。 女 憶えてなくて当然です。  でもそんな些細なことが私には大きくて、ずっと演じてきた  ことを、ひた隠してきたことを見抜かれたような……。  でもそれは悪い意味じゃなくて……。  それで、もっと完璧に演じられるようにならなきゃって思う  一方で、もっと見抜いてもらいたい、気にかけてもらいたいっ  て気持ちもあることに気づいて、それで迷いました。 男 迷う? 女 ええ、どっちを選ぼうかって。  すごく迷って……。  迷って迷って、結局迷子のまま、どうにもならなくなって……。  もしかしてあの時が一番辛かったかもしれません。 男 でも学校は続けたんですよね? 女 いえ……。  あなたが辞めた二か月後に辞めました。  もちろん誰のせいでもなくて自分のせいなんですけど。 男 そうだったんですか。 女 辞めてからあなたに手紙を書きました。 男 え。  僕に? 女 ただ、書くには書いたけど、出せませんでした。  と言うか、渡せなかったんです、結局。 男 でも僕が辞めてからのことでしょ? 女 そう、辞められてから何度かお見かけしたんです。  本当に偶然。  当時よく行ってた本屋さんです。  わかりますか?  噴水広場に面した半地下のお店です。  小さなペンダントライトがたくさん吊るされていて、奥に  カフェスペースのある……。 男 ああ。  そこは覚があります。  カフェにもよく寄りました。 女 私もその背中越しに居ました。  見かけるたびに、何度となく……。  手紙を持って。  あなたの背中を見ながら考えを巡らせたり、意を決したり、  ためらったりしているうちに、あなたは来なくなっちゃい  ました。      沈黙。 男 その頃の僕になにが出来たでしょう?  あなたの発していた何らかの信号に対して……。 女 迷子は誰かとはぐれたから迷子なんでしょうけど、私は  迷子ですらなかったのかも……。 男 いや。  あなたは迷子だったんです。  よくいる、ふつうの。 女 その頃から飲んでいたんです。  その薬。 男 じゃあ少なくとも預かるくらいは出来たかもしれません。  今みたいに。       沈黙。 男 あのあと、僕は砂漠を見に行ったんです。 女 砂漠?  取材で? 男 いや、でも結局は取材ということになりました。  そのあとに砂漠を舞台にした本を書いたのですからね。  まさに焦熱の砂漠のようでした。  あなたが心配してくれた通り。 女 え。 男 その砂漠のとば口でね、忠告みたいなことを言われたんで  す。 女 もしかしてヨーグルト屋さんで? 男 水を売っている女の人が近寄ってきて……。  自分の母親くらいの歳の人で、水を買えって言うのかと思っ  たらそうじゃなくて、「今あなたが死んで、泣く人がいない  としても、これからは分からないよ」って。  「まだ見ぬ人の顔を想像出来るか」みたいなことを言われま  した。 女 どういう意味だったのかしら? 男 まあそういう意味でしょう。  きっと旅行者のような顔をしてなかったのかな。  もしかすると僕も気を抜いていたのかもしれない。  とても暑かったし、とてもくたびれていましたからね。     沈黙。 女 ごめんなさい。  その薬ですけど、飲み合わせよりも一番危ないのは……。  発作の最中に飲むことなんです。  そんなことをあなたに……。  本当にごめんなさい。 男 一人のようでも一人じゃなかったりするんですよね。  その時は気づかないけど……。  僕は砂漠のとば口で引き返しました。  あなたは? 女 ……。 男 あなたはどうですか?     沈黙。 女 もう遅いわ。 男 いや……。     沈黙。 男 戻ろう。  迷子のキミがいるところへ。     女、顔を伏せ、嗚咽をあげる。     やがて泣き崩れる。     男、静かに手を差し伸べる。            ‐了‐ 「焦熱の砂漠へ」 2011年6月初稿 2017年3月改稿