天空台からけむりのように              ソンブレロ 《第一場》    小高い丘の上。    ベンチひとつだけの小さな公園。    そのベンチに男、画板を首から提げ、絵を描いている。    間もなく下手から若い女、現れる。 女 こんにちは。 男 ……。 女 こんにちは。 男 え。 女 ごめんなさい。  ひとつだけお尋ねしたいの。  ネコ見なかった? 男 ネコ?  いや。 女 そう……。 男 どんなネコ? 女 どんなって、ふつうのネコよ。  どこにでもいるような。  昨夜から帰ってこないの。  こんなの初めて。 男 それはお気の毒に。  でも見なかったよ。  ネコなんて。  もっと居そうなところをさがした方がいいんじゃない? 女 居そうなところ?  どこのこと? 男 たとえば……。  えーっと、市場のはじっこなんかは?  よくネコが集まってたよ。 女 ああ、あそこは居ないわ。  ネコって縄張りとか厳しいから。 男 へえ。  とにかくここには来ないよ。  なんにもないし。  一番来そうもないと思うね。 女 そうね、でも……。  ネコって追われると高いところに逃れるって習性あるし。  もしかして、って思ったの。  ごめんなさい。  お邪魔しました。 男 役に立てなかったね。 女 いつもここで絵を描いているの? 男 ああ、まあ、最近は。 女 そう。  今度差し入れもって来ようかな。  ドーナツだけど。  うちので良ければ。  クランチとかね。 男 うちのドーナツって? 女 あら。  ドーナツ屋よ。  わたし。  わからない? 男 ……。 女 時々買ってくれるでしょ?  ほら、中央市場の外れの。  小さな公園の先の……。 男 あ。 女 やっとわかった? 男 ああ、なんだ。  気がつかなかった。  はは。  もし見かけたら知らせるよ。 女 ありがとう。  じゃあ……。    女、下手へ向かうが、すぐに戻る。 女 忘れてた。  一応言っておくけど、明日は一日お休みです。  あさっては、多分再開。  以上です。 男 休む?  もしかしてネコ探しってこと? 女 お砂糖が切れちゃったの。   全然ないの、ボンヤリしてて……。  だから買出し。 男 へえ。  それ、遠いの? 女 そうでもないけど。 男 重いの? 女 うん、でも荷車があるから。 男 良かったら手伝おうか? 女 ありがとう。  でもいいわ。  悪いわ。 男 休むなんてもったいないよ。 女 大丈夫。  どうせネコを探すつもりだったし。 男 じゃあキミはネコを探しなよ。  代わりに砂糖を買ってくるからさ。 女 親切ね。 男 ヒマなだけだよ。 女 画家さんだったのね。 男 専業じゃないけどね。 女 あら、じゃあ本業は? 男 ペンキ塗り。  つゆ時は仕事が減るもんで。  たまに晴れても仕事がなくてね。 女 どんな絵?  見ていい? 男 まだ色を塗ってないんだ。      女、近寄って覗き込む。 女 へえ。  素敵ね。  でもこれどこの街? 男 どこってわけでもないんだ。  想像だから。 女 想像?  景色を見ながら描いてるのかと思った。 男 色々描かなきゃならないからさ。  絵ハガキ用なんだ。 女 じゃあどうしてここで?  お部屋でも描けるんじゃないかしら? 男 うん、まあ、気晴らしだね。  それに空を見てると、想像もできるし。  その下にある街並みなんかもさ。 女 そうよね、壁を眺めているより描きやすいものね。  噴水広場に、この立派なトンガリ屋根は教会ね。  小さな家がいっぱいあって……。  屋根はレンガ色に塗られるのかしら? 男 ああ、まあ……。 女 これが絵ハガキになるのね。 男 まだわからないけどね。  まとめて送るんだ。  何枚売れるかはわからない。  売れれば絵ハガキになるし。  ダメなら一枚も、なんてことも……。 女 売れるわ。   きっと。   そう思う。 男 ありがとう。 女 じゃあ……。  さよなら。 男 ああ……。    女、下手へ去る。 男 明日、行くよ。    男、下手を見ているが、向き直って描き始める。    やがて上手から若い男(もしくは女)現れる。 ネコ お世話様。 男 やあ。 ネコ なんの話ですか?  明日行くとかって聞こえたけど。 男 ああ、ちょっとした手伝いって言うか、砂糖の買出しをね。  全然ないんだって。 ネコ へえ。  ずいぶん親切なんですね。 男 いや、嘘ついてるのが悪い気がしてさ。 ネコ それにしても本当に探しに来るとは……。 男 どこにいたの? ネコ この上です。 男 あの見晴台みたいな? ネコ ええ、その更に上ですけど。  意外と下の声が聞こえるんですね。  話の内容まではわかりませんが。 男 でも驚いたよ。  言ったとおりだね。  完全にネコだと思い込んでた。 ネコ ええ、嘘じゃなかったでしょ? 男 疑って悪かったよ。 ネコ 仕方ありませんよ。  信じられませんから、ふつう。 男 催眠術でもかけたの? ネコ やっぱりそう思いますか?  でも、まあ、似て非なるものですけどね。 男 どう違うの? ネコ そうですね……。  催眠術ほどエンターテイメント性もないし。  かけるというよりは、告白するって言うか……。 男 告白?  ネコだってことを? ネコ ネコじゃないかって、疑われることが前提ですけどね。  もしかしてネコ?  って思われるように仕向けるんです。 男 どうやって? ネコ そこまでは、ちょっと……。  企業秘密とでも言いますか……。  一応、これで食ってますので。 男 じゃあなんで逃げてきたの? ネコ それは、その……。  あんまり簡単に信じちゃうのも甲斐がありませんし。 男 でもむしろ好都合なんじゃない? ネコ そこが難しいところで。  張り合いがないと言いますか……。 男 張り合いね……。 ネコ 仕事ってそういうものじゃありません?  さてと、お邪魔しました。   上へ戻ります。 男 また戻るの? ネコ ネコの習性なんです。  追われると高いところへ逃れるって。 男 うん、でも、アンタはネコじゃないし。 ネコ まあ、でも彼女が探している間はネコでいます。  たとえ彼女が見てないところでも。 男 ずいぶん真面目だな。 ネコ ええ、遊びじゃないんで。  最後まで責任を持って取り組もうかと……。  まあ、それほど長く掛かりませんしね。  そう、早ければ二日。  おそらく一週間も経てばすっかり忘れるはずです。  ネコを飼っていたことまでも。 男 へえ、すっかり?  そういうものなの? ネコ まあ、そういうものなんです。  では、失礼します。 男 お疲れさま。    ネコ、上手へ。 男 あ。  ところでさ、どうしてネコなんだろ?  犬とかウサギじゃなくてさ。 ネコ 単にネコが一般的ってだけです。  大した意味はありません。 男 じゃあ、ついでにもう一つ聞くけど。  どうして教えたの? ネコ なにをです? 男 正体。  ネコだってこと。 ネコ そりゃ、まあ……。  かくまってもらうためです。 男 それだけで?  もしかしてオレも忘れちゃうのかな?  アンタがネコだったってこと。 ネコ どうでしょう……。 男 誰にも言わないけどね。 ネコ べつに問題ありませんよ。  彼女はすっかり忘れてしまいますから。  それに、もう辞めようと思ってるし。 男 辞める?  なにを? ネコ ネコをです。  こう言ったらなんですけど……。  装い続けるって意外と消耗するんですよ。  心も身体も。 男 なるほど。  もっと自分らしく生きたいってことかね? ネコ ええ、まあ、ですから今度はちゃんと働きますよ。  よかったらご利用ください。  お店を開きますので。 男 お店?  それって何屋? ネコ 靴の修理屋です。  昔とった杵柄って言うか……。  以前の居候さきが靴の修理屋だったもので。  見よう見まねってやつです。 男 自立ってわけだ。  それはおめでとう。 ネコ どうも。  では……。    ネコ、上手に去る。    男、作業を再開する。    やがて下手から女、息せき切って現れる。 女 ねえ!  ちょっと教えて。  私さっきここに来た? 男 え、ああ……。 女 そうでしょ。  それであなたにドーナツを届けようと思ったんだもの。  だから、戻って……。  でも、どうしてここで会ったのかしら? 男 そりゃキミが探しに来たから。 女 探す?  なにを? 男 ネコを。 女 ネコ?  私が? 男 覚えてない? 女 ……。 男 へえ、意外と早いんだね。 女 うぅん、まだ持ってきてないわ。  途中で引き返してきたのよ。  ねえ、本当に私がネコを探してたの? 男 そう言ってたよ。  ネコを見なかったかって。  昨夜から帰って来ないって。 女 ネコって、どんなネコ? 男 さあ……。  ふつうのネコだって言ってた。 女 ふつう?  人にものを尋ねるのにそんな言い草あるかしら。 男 ああ、まあ……。 女 うぅん、ごめんなさい。  そう言えばそんな気がするわ。  なにかを探してたような……。 男 ネコだろ? 女 ええ、でもどんなネコだったかも曖昧だったんだわ。  もしくは、ネコを探す人を演じてた、みたいな。  なんか、変なかんじ。  わかる?  わからないよね? 男 いや、まあ、わからなくもないけど……。 女 いいの。  なんか、ちょっと整理ついてきたから。  あなたの言うとおりだわ。  きっと探してたのよ、ネコを。 男 思い出した? 女 うん、でもそれは昔の話。  子供の頃のね。  ネコが帰ってこなかったことがあって……。  きっとそのせいね。  だから本気で探していたわけじゃないのよ。  ちょっとした思い違いって言うか、古い引き出し開けちゃっただけ。  それで昔の記憶と現実が交錯しちゃったんだわ。  記憶の奥にある写真とか日記を見ているうちにね。  ふふ、何やってるのかしら、まったく……。 男 結局帰ってこなかったわけ?  そのネコって。 女 ええ、ずいぶん探したの。  どこかで迷子になってるんじゃないかと思って。  まだ子猫だったから。 男 じゃあ、きっと誰かが助けてくれたんじゃないかな。  子猫だってことが幸いしてさ。 女 そう思ったの、私も。  きっと大丈夫だって。 男 うん、誰かに可愛がられているか、逞しく自立してるか、どっち かかもね。 女 ええ、そう考えて、忘れようって……。  あ、邪魔よね?  ごめんなさい。  あら。    下手から男(館長)。 男 やあ。 館長 失礼。  お話中申し訳ない。  ちょっといいかな? 男 どうぞ。 女 あ、じゃあ、私、失礼するわ。 館長 いえ、すぐ済みますので。  どうか……。 男 館長なんだ。  映画館のさ。 女 はじめまして。  二丁目でドーナツ屋を営んでいる者です。 館長 それは、どうも……。  ご存知でしょうか?  役場の向かいの映画館、ギャラリーも併設していまして、彼の絵も 展示中です。  ちょっと手狭ですが、今度、ぜひ。 男 どうしたの? 館長 実はキミの描いた絵を褒めてくれた人がいてさ。  とっても気に入ってね。 男 欲しいって? 館長 うん、いや……。  必ず売れるってさ。  間違いないって、太鼓判押してたよ。  でね、預からせてもらえないかって。 男 絵を?  へえ……。  で、なんて答えたの? 館長 いや、まだ、なにも。  キミの許可なしでは始まらないからね。  で、どう?  とっても顔の広い人だし……。 男 そうだね、まあ、考えてみるよ。  いますぐ答えなくてもいいんだろ? 館長 ああ、ぜひ前向きに。 男 それを伝えにわざわざ? 館長 うん、いや、それと……。(内ポケットを探る)  これなんだけどね。  今夜って予定ある? 男 なにそれ?  招待券? 館長 いや、割引券なんだ。  今回のはえらく好評なんで、見逃す手はないと思ってさ。  とりあえず二枚、はい。 男 映画ね……。  せっかくだけど今夜はムリだね。  明日までにもう何枚か仕上げたいからさ。 館長 じゃあ明日でも。  損はしないからさ。  いかがですか?  ご同伴でしたら女性は半額に致します。 女 わあ。 館長 では。  これで……。 男 忙しそうだね。 館長 上映中はなにかとね。  じゃあ、失礼。    館長、下手に向かうがすぐ戻る。 館長 この上に誰かいないかと思って……。  見晴台にカップルとかさ。 男 さあ……。  ずっとここにいたけど誰も通らなかったよ。 館長 そう……。 男 何枚か預かろうか? 館長 え。 男 割引券を配るんだろ? 館長 ああ、じゃあ……。  いいかな。(内ポケットを探る)  悪いね。    館長、男にチケットを手渡すとそそくさと下手へ去る。 女 走って行っちゃったね。 男 うん、大変なんだろうね。  お客が少なくてさ。 女 でもとっても好評だって言ってたわ。 男 好評と盛況は違うからさ。  それで自ら走り回ってるんじゃないかな。 女 そう……。  忙しいのね。  ねえ、でもよかったじゃない?  絵が褒められて。 男 え、ああ……。 女 嬉しくないの?  必ず売れるって言われたのに。 男 売れればいいけどね。 女 売れるわよ、きっと。  太鼓判押されたって言ってたじゃない? 男 うん、まあ、考えてみるよ。 女 なにを? 男 絵を預けるかどうかを。 女 預けるに決まってるでしょ?  なにを考える必要があるの? 男 わりと常套な手なんだよ。  こういうの。  手数料と船賃を前払い。  で、売れなきゃ取られ損、みたいなさ。 女 どこへ売りに行くのかしら?  船に乗って行くんでしょ? 男 船とは限らないけどね。 女 だって船賃って言ったわ。 男 旅費のことをそう言うんだ。 女 でも遠くなんでしょ? 男 どうかな……。  旅費持ってそのまま、なんてことも珍しくないし。  もちろん全部が全部じゃないけど。 女 でも、館長さん喜んでたわ。 男 うん、まあ、仲介料が入るしね。    沈黙。 女 ねえ。  どんな絵なの?  展示している絵って。  やっぱり街の絵? 男 なんだったっけ……。  彼が訪ねて来て、適当に持って行ったから。 女 へえ……。  ねえ。 男 ん? 女 うぅん、ごめんなさい。  描いて。 男 ……。 女 どうぞ。 男 ああ……。    沈黙。    そして溶暗、暗転。   《第二場》    前場面と同じ場所。    男、中央の椅子に座り、画板ではなくイーゼルを    立てている。    描いている様子はなく、ただ遠くを眺めている。    ネコ、下手から、ぶ厚い数冊の本を抱えて現れる。 男 出掛けてたの? ネコ ええ、まあ。    ネコ、男の傍らまで歩み寄る。 ネコ いま、ここ、いいですか? 男 ああ、どうぞ。 ネコ 参った。  なんて重いんだろ。(座る) 男 それ全部買ったの? ネコ 借りたんです。  こんな本売ってませんよ。  誰も買わないだろうし。 男 なんの本? ネコ まあ、いろいろですけど。  よかったらご覧下さい。  手が痺れちゃったな。  ちょっと休ませて頂きます。 男 オレも実は痺れてるんだ。  運んでるときは平気だったのにさ。 ネコ それでも描けるんですか? 男 いや、全然描けてない。  さっきから休んでたんだ。 ネコ 意外に重いんですね、それって。 男 どれ? ネコ その三脚っていうんですか……? 男 ああ、これじゃなくて、砂糖を運んだからさ。  ちょっと失礼……。    男、本を手にとる。 男 一冊でも重いや。  法則辞典……。  なんだこれ。 ネコ その名のとおりですよ。  ありとあらゆる法則の混載です。 男 質量と凝固の法則、集合における心理の法則……。  なるほど。    男、本を閉じ、ほかの本の背表紙を見る。 ネコ 気晴らしにいかがです? 男 いや、眠くなりそうだよ。  あ、もしかしてそういう目的? ネコ って言うか、精神安定剤ってかんじです。 男 精神安定ね……。   じゃあ、なに、いま不安定なわけ? ネコ ええ、ちょっと。  まあ、発作みたいなものです。  よくあるんです。  ただ、このたびのは、いつもと違うって言うか……。   落ち着かないんです。  ネコじゃない自分っていうのが。 男 へえ、で、これで気休めね……。 ネコ ええ、まあ……。  ネコって結構ヒマなんですよね。  飼いネコだと特に。 男 そりゃそうだろうね。 ネコ 何も考えずとも一日過ごせますしね。  時々、ちょっと怖くなるんです。  もう戻れないんじゃないかって……。 男 このまま一生ネコ、みたいな? ネコ 無知でいることの怖さって言うか……。      男 無知って不幸かね? ネコ そりゃまあ……。  ですから気休めです。  なにかを理解しようとすることで踏みとどまれる、みたいな。 男 へえ、でももうアンタはネコじゃない。 ネコ そうです。  ボクはもうネコじゃありません。  靴の修理屋です。  今日から。  あ、いや……。  明日からにします。  そのほうがキリがいいし。  だって、今日は、もう半分終わってますしね。  明日なら朝から修理屋になれます。 男 どちらにしてももう不安定なんて言ってられないな。  よかったら、これ、使いなよ。    男、イーゼルをネコの前に移動し、    画用紙の代わりに本を置く。 男 手が疲れずに済むから。  どうせ今日はダメだろうし……。(紙をまるめる)  こっちの方は、もう。 ネコ ご親切に、どうも……。  今日中に読破する意気込みで取り組みます。 男 これ全部を? ネコ もうおセンチなこと言ってられませんから。 男 ああ、じゃあ頑張って。 ネコ はい、では早速。    女、下手から両手にバスケットを持って現れる。 男 あ。 女 こんにちは。  さっきは、ありがとう。 男 ああ、いや……。 女 お友達? 男 うん、まあ……。  知り合い、って言うか、なんて言うか……。 ネコ どうも。 女 はじめまして。  あの、私、二丁目でドーナツ屋を営んでいます。  よろしく。 ネコ あ、こちらこそ……。 女 お口に合うといいけど……。  ドーナツはお好き? ネコ ええ、まあ、わりと……。 女 これ、まだ温かいんです。  揚げたてなの。  よかったら、お二人で。    女、ベンチの端にバスケットを置く。 男 悪いね。 女 しばらくお砂糖を補充しなくて済むわ。  とっても助かった。  じゃあ……。 男 え。 女 紅茶持ってくるの忘れちゃった。  馬鹿みたい、用意してたのに。 男 問題ないよ。  ただでさえ空気が湿ってるしさ。  どう? ネコ え、ええ、そうですね。  全然問題ありません。 女 それにしても読書とはね。  てっきり二人で描いているのかと思った。 男 いや、二人で読書なんだ。  描けない日は描かない。  で、読書とシャレこもうかと……。 女 あら、まるで有名画家みたいね。  いつ降ってもおかしくない空模様だけど……。  いいの? 男 ゆうべ散々描いたしね。  全部放り込んじゃったけど。 女 送ったってこと? 男 いや、ポストじゃなくてゴミ箱へ。 女 捨てちゃったの?  どういうこと? 男 どうも振るわなくてね、最近。 女 だからって捨てることないのに。  ずいぶん勝手なのね。  私には出来ないわ。  自分が作ったドーナツを捨てるなんて。  出来あがったら、もう私のドーナツじゃないのよ。  少しくらい不細工でも……。  ドーナツに罪はないもの。 男 そりゃ、まあ、そうだけど……。 女 自慢じゃないけど……。  いえ、これが唯一の自慢なんだけど、捨てたことないの、一度も。 男 ずいぶん売れるんだね? 女 そうでもないわ。  バス通りのコーヒーショップの方が評判は上だし。  悔しいけど喫茶店に負けてるの、専門店なのに。 男 じゃあ売れ残ったら食べるわけ? 女 そうよ。 男 全部? 女 もちろん。  え、あ、全部、だったかしら……?  そう、全部よ、捨てたことないもの。  それが製作者の責任でしょ?  あ、ごめんなさい。  読書の邪魔ね。  戻るわ。  お店開けなきゃ。  じゃあ。  さよなら。 男 じゃあ……。    女、下手に去る。    短い沈黙。 ネコ 悪いことしちゃいましたかね? 男 え。 ネコ 一緒に食べるつもりだったとしたら……。 男 いや、そんなことないよ。  店があるって言ってたし。 ネコ どうして捨てたなんて言ったんですか?  送ったんでしょ?   今朝郵便局へ入っていくところを見ましたよ。  運んでたの、あれ絵でしょ? 男 ああ、あれね……。  捨て場に困って送ったんだよ。 ネコ じゃあ、やっぱり送ったんですね? 男 無記名で投函したんだから捨てたも同然だよ。  九分九厘お払い箱だろうし。  まあ、送料が向こう持ちっていうのは幸いだけどね。  捨て場に困ってる者にとってはさ。 ネコ 置き場に困るって言うならまだしも……。  捨て場ですか? 男 似たようなものだよ。  どっちにしても持て余してたんだし。    館長、下手から現れる。 館長 やあ、今夜は大丈夫だよね? 男 なにが? 館長 おいおい、昨日言ったよな?  明日なら行けるって。 男 ああ、今夜は、ほら、えーっと……。  その、彼女の方が……。 館長 観に行きたいって言ってたよ。  さっきすれ違ってさ。 男 いや、実は絵の方が思うようにはかどらなくてね。 館長 で、いつ終わりそう? 男 いま追い込み中ってとこ。 館長 追い込み?  はは、どこが? 男 いや、まだちょっと手が痺れててさ。 館長 やれやれ……。 男 明日か明後日なら、多分行けるんじゃないかな……。 館長 こちらさんは? 男 ああ、まあ、ちょっとした知り合いって言うか……。 館長 あの、厚かましくも、失礼……。  ご存知でしょうか、役場の向かいの映画館。  ただいま上映中の作品が大変好評で。  お見逃しのないようご案内して回っている次第でして……。 ネコ 映画……。 館長 いかがでしょう。  初めてご来館の方は半額に致しますので。 男 彼も実は忙しいんだ。  今日のうちに読破する意気込みらしいから。 館長 これ全部を?  あの、なにかの苦行ですか? ネコ いえ、その、ただの気分転換、と言いますか……。 館長 気分転換、ですか?  でしたらご検討いただけないでしょうか?  映画鑑賞で気分転換という方向転換を。  ぜひ。 ネコ ええ、検討してみます。  ご期待に沿えるかわかりませんが。 館長 どうかよろしく。  ただいま半額券の持ち合わせが……。(内ポケットを探る)  ありませんけど、大丈夫です。  受付でご申告下さい。  初めてだと。  では、お待ちしています。    館長、下手に向かうが、立ち止まる。 館長 申し忘れました。  ギャラリーを併設してるんです。  彼の絵も展示中でして、とても好評です。  併せてこの機会に、ぜひ。  ではでは……。    館長、下手に向かうが、戻る。 館長 あ、そうだ。  見晴らし台にカップルがいたりしないかな……。 男 上なら誰も居ないと思うよ。 館長 うん、でも、もしかして……。 男 ムダ足だよ。  また券を預かろうか? 館長 すべて配っちゃったんだ。  あとはこうして伝え回ろうと思ってね。  あ、昨日の割引券は? 男 もうないよ。  彼女が預ってくれたんだ。  客に配るからって……。 館長 なるほど。  で、上は誰も居ないんだね?    館長、下手に向かうが、立ち止まる。 館長 ところで考えてくれた?  昨日の今日でせわしないけど……。  例の、絵の件。 男 ああ、考えたよ。  任せることにするよ。 館長 そうか。  うん、それがいいよ。  きっと評価されると思う。  じゃあ、早速そのように……。 男 うん、あげるよ。  どうぞ。 館長 あげる?  あげるって、そんな……。  それじゃあ流れちゃうぜ。 男 その方が後腐れないだろ?  売れるかどうか気を揉むこともないし。 館長 キミだって自分の作品に対する愛情ってものがあるだろ?  そんなに簡単に……。 男 ずいぶんおセンチなこと言うんだな。 館長 愛情って表現が適当じゃないなら、責任かな。  描きっぱなしじゃキミの作品たちが救われないよ。  絵は飾っておけば売れるってもんじゃないんだ。  大勢の人たちに売り込むってことが必要なわけで……。  投資って言うかさ。 男 だろうけど……。 館長 もう一度考えてみてよ。  せかして悪かったね。  じゃあ……。    館長、下手に去る。 男 読み進まないよな?  たびたび腰折られて……。 ネコ いえ、実はこれ、何度も読んでいるんです。  だから飛ばし読みなんです。  読破なんて言ったけど……。 男 なんだ。  じゃあ途方もない話ってわけじゃないね。  ところで、せっかくだから、どう?  ドーナツを食べながらさ。 ネコ そうですね。  まだ温かいらしいし。  いつものだと思いますよ。  きっと。 男 いつものって? ネコ いつも買われる、お好みの。  クランチと、シナモンでしたっけ?  時々、メープルだったり……。  彼女も覚えてるはずですよ。 男 どこかで見てた? ネコ 聞こえてたんです。  店の奥に居ましたから。 男 奥に?  ドーナツを揚げてたの? ネコ いえ、何も。  丸椅子に座っていただけです。  日がな一日。  手伝いたかったけど、なにせネコですし……。  それほど繁盛しているわけでもありませんしね。  ネコの手を借りるほどは。    ネコ、バスケットの一つを男に渡す。 ネコ どうぞ。 男 ああ、ありがとう。    男、バスケットを開ける。 男 はは。  本当だ。 ネコ やっぱり? 男 うん、クランチにシナモンにメープル……。  うまそうだよ。 ネコ 出来たてなんて初めてです。  いつも売れ残りばかりで……。    ネコ、もう一つのバスケットを開ける。 男 アンタも一役買ってたんだ? ネコ ……。 男 製作者の責任っていうのを……。  ん?  どうかした? ネコ いえ、偶然だろうけど……。 男 なにが? ネコ これ。 男 どれ? ネコ ボクの好みのドーナツばかりだ。  どうしてだろう……。 男 彼女の好みじゃないかな? ネコ いえ、違います。  彼女の好みは知ってますから。  やっぱり、願望でしょうか。  誰かに自分のことを……。  なにか一つでも知ってもらいたいっていう。 男 それって、ドーナツのこと? ネコ ええ、たとえば。  ボクの好きなものを知っている……。  作ってくれる人がいたらな、っていう……。  そういう思いが伝わったのかもしれません。     沈黙。 ネコ あの、見えませんよね?  ボク、ネコに……。 男 え、ああ……。 ネコ そうですよね?  全然見えませんよね? 男 もし、見えたとしたら、どうだっていうの? ネコ いや……。 男 失礼なこと聞くけど……。  ネコって不憫かい? ネコ ……。 男 そんなに不幸なの?  ネコって。 ネコ 誰が望んでネコになりますかね?  同じネコでも飼いネコならいいですよ。  待遇が段違いですから。  野良と比べればね。 男 アンタは飼いネコだったんだろ? ネコ 野良でした。 男 野良? ネコ もっともネコになる前のことですけど。 男 へえ。  失礼ついでに聞くけど……。  アンタ、もしかして戦災孤児かい? ネコ いいえ、違います。  ただのみなしごです。  よくいる、ふつうの。     沈黙。 男 食おうか。 ネコ 仕事の選択肢は二つあったんですけどね。  塗装工か灯油の量り売り。  ちょっと考えて、灯油売りの方にしました。 男 ペンキ屋はイヤだった? ネコ つゆ時は仕事がないらしいんで。  それに、塗料の匂いが馴染めないんじゃないかって……。 男 なるほど、匂いね……。  でも、慣れるだろうけどな。 ネコ そうでしょうね。  もし、あのとき、ペンキ屋になっていたら……。  なんて、考えたりして。 男 ペンキ屋だったら、なんだって? ネコ ネコになんてならなかったかな、とか。    沈黙。 男 食うよ。(ドーナツを齧る) ネコ お買い上げ頂くと、お宅まで灯油を運ぶんです。  時々、お茶をご馳走になったり……。  玄関先ですけど。  家族の人たちの靴が並んでて……。  当たり前だけど、玄関ですから。  それで、まあ……。  たまにリビングが覗けることもあります。  と言っても、故意じゃないですよ。  なんて言うか、目に入るって言うか……。 男 ああ……。 ネコ テーブルがあって、椅子がならんでたり……。  これも当たり前ですね、食卓ですし。  子供用の小さな椅子もあったり。  それで……。 男 それで?  なにか思い出したの? ネコ え。 男 なにかあったの?  届けたお宅先で。 ネコ いえ、なにも……。 男 じゃあどうして泣いてるんだろ?  さっきから。 ネコ 泣いてる?  誰が、ボクが? 男 ああ、なんか切ないことでもあったんじゃないの? ネコ 泣いてますか?  ボク。 男 泣いてるだろ、現に。 ネコ いや……。  その、泣いてるんでしょうね、多分。 男 多分?  なんだそれ。  自覚ないの? ネコ ええ、でも泣くかもしれません。  恐らくですが、これから。 男 え。 ネコ これじゃあ振り出しに逆戻りだ。  戻れないどころか。 男 振り出しって? ネコ 最初に拾われた時にです。  修理屋のご主人に。 男 いや、でもアンタはもうネコじゃない。 ネコ いえ、まだネコです。  むしろ駆け出しの。 男 そこまで戻るわけ? ネコ 靴の修理屋の軒先で、雨宿りをしていて拾われた時のように。  もし、ボクが泣いているのだとすれば。  不意の雨で、逃れる場所を選べなくて。  もし追い払われそうになったら、なんて体裁考えて……。  道を尋ねようか、停留所とか。  乗るはずもないのに。 男 ……。 ネコ どうして泣いてるの、って。  やむまで休んでいけって、座敷にあげてもらって……。  それから本当に泣きました。  間違いなく、頬をつたって零れ落ちました。 男 以来ネコってわけ? ネコ ええ、そこにおいてもらえる術を考えて。  まだフルタイムじゃありませんでしたけど。  日中灯油を売り歩いて、夜は帰ってネコって具合に。 男 で、やがて専業……。  みたいな?  なるほどね、でもキリがないよ。  いちいちそこまで戻ってたらさ。 ネコ ええ、これじゃあまるで意地の悪い迷路です。 男 まあ、食ったら?  とりあえず。 ネコ いただきます。    ネコ、ドーナツを手に取る。 男 ペンキ屋でもやるかい?  どうせ振り出しからなら……。 ネコ え。    沈黙。 男 食えば。 ネコ ああ、ええ……。    ネコ、一口齧る。    二人、無言のまま食べている。    やがて溶暗、暗転。        《第三場》    前場面と同じ場所。    ベンチに男と女、バスケットが一つ。    イーゼルに、画用紙。 男 どうしてって、他に選びようがなかったって言うか……。 女 他になかった?  あら、そんな理由なの? 男 ああ、二つに一つだったからさ。   なり手がいなかったんだろうけど。  灯油売りと、ペンキ屋。 女 私だったら灯油を売る方かしら。  客商売は苦手じゃないし。  でも灯油って重いのが難点ね。 男 うん、まあペンキも重いけどね。  でも客商売は得意じゃないし……。  やっぱペンキ屋かな、みたいな。 女 ねえ、どうだった?  今日のドーナツ。 男 そう言えばなんだかいつもよりうまかった気がする。  歯ごたえって言うのかな……。 女 わかる?  今ね、研究中なの。  ちょっとでも進歩したいと思って。 男 そう、でも悪かったね。  わざわざ。 女 全然。  どうせお休みだし。 男 いや、だから申し訳なかったと思ってね。 女 うぅん、むしろ良かったの。  誰かのためにドーナツを作れて。  楽しかったわ。    沈黙。 女 もうすぐ戻るの? 男 え。 女 戻っちゃうんでしょ? 男 どこへ? 女 ペンキ屋さん。 男 ああ……。  そうだね、もうそろそろってとこだね。 女 もっと描けばいいのに。  観たわ。  絵。 男 え。 女 二回観たの。  映画を観る前と後と。 男 二回も。  それは、どうも、ご熱心に。 女 いつ描いた絵? 男 どんな絵だろ?  まあ、どうせ街の絵だろうけど。 女 街って言うか、家の絵。  大きな窓の。  カーテン越しのリビングとか。  地図が貼ってある子供部屋とかが見える……。  そんな絵。 男 ああ、古いやつだ。 女 あれも想像? 男 ……。 女 ここから見えたの? 男 いや……。  もっと低いところ。  たとえば、梯子の上とか……。 女 はしご? 男 うん、想像って言うか、わりと現実。  ペンキ塗ってると、たまに覗けることあるから。  部屋の中とか。 女 覗く? 男 いや、もちろん故意じゃなくてさ。  なんて言うか、目に入るって言うか……。 女 ええ……。 男 テーブルがあって、椅子がならんでたり……。  そりゃそうだよね、食卓だし。  子供用の小さな椅子もあったり。  だから現実半分の、願望半分、みたいな。 女 願望? 男 うん。  願望って言うか、羨望。  なんかいいな、みたいなね。    沈黙。 女 きっと売れるわ。 男 あ、なに、知ってた? 女 館長さん喜んでたわ。  売ることにしたのね? 男 うん、製作者の責任っていうのを鑑みてね。  勝手なことは出来ない。  いくら自分の絵でも。  ちょっとくらい不細工でもね。 女 不細工なんかじゃないわ。 男 まあ、それに船賃程度の準備が出来たからさ。  捨てたはずの絵が拾われたおかげで。 女 拾われたの?  誰に? 男 いや、カッコつけてたんだ。  捨てたなんて。  無記名って言っても絵をみればわかるし。 女 じゃあ、送ってたのね? 男 うん。  どんでん返しって言うか……。  九分九厘ダメだろうってのが。  全部拾われた。 女 全部!  へえ、良かった。  捨ててなくて。  あ、じゃあ、あれもカッコつけてただけ?  この間一緒に返したあの重たい本も。 男 え。 女 こんな難しい本を読んでいるんだ、みたいな。 男 いや、あれは……。 女 なんだっけ、あの、なんとか原理の法則とかって……。 男 原理?  そうだっけ? 女 そうだっけって、読んでたでしょ? 男 オレはほとんど、なにも……。 女 じゃあなんで借りたの?  あ、行動原理の法則だったわ。 男 ああ、あったかもね。 女 その程度なの? 男 自分だって……。 女 返す時にほんのちょっと見ただけだもの。 男 いや、彼のことだよ。 女 彼? 男 ああ。 女 誰? 男 だから、ほら、ここで一緒に……。 女 え。  誰かいた?    沈黙。 男 本当に?  参ったな。  徹底してる。  はは。 女 あのね、割引券が挟まってたの。  そのページに。  あなたでしょ? 男 行動原理の法則だっけ?  どういうつもりだったんだろ……? 女 ネズミは、群れを成して一方向を目指し……。  ネコは光のように消え去るとかって。 男 ああ、それならネコはけむりのように、じゃなかったかな? 女 え、ネコはけむりのように消え去るだっけ?  で、これってつまりどういうことなの? 男 さあ……。  法則って言うより、なんだか迷信みたいだけどね。 女 本当ね。  ネコの行動って謎が多いから。 男 え。 女 でも自由気ままなかんじがいいなぁ。  どっちか選ぶとしたらネズミよりネコになりたいと思わない? 男 いや、まあ、群れないっていうのもそれなりの気苦労はあるんだ ろうけどね。 女 ねえ、知ってる?  ネコって追われると高いところへ逃げるって。 男 へえ。 女 探したことあるの。  ネコを。  いなくなっちゃったの。 男 飼ってたの? 女 子供の頃だけど。  この上も探しに来たわ。 男 この上? 女 うん、見晴台と、その上もね。  子供たちの秘密基地。 男 基地ね……。 女 天空台って呼んでた狭い場所。  ネコの額くらいの。 男 いたの?  そこに。 女 いなかったわ。  どこにも。  あ、これって前にも話した?    沈黙。    曇天に、薄日が差し始める。 男 明るくなったね。 女 私? 男 え。  いや、空が。  ほら、ようやく……。 女 あ、ええ、そうね。  晴れ間が見える。  久しぶりね。 男 よかったら、あの……。 女 なに? 男 うん、もしよかったらだけど……。  ちょっと歩かないかなと思って。 女 歩く? 男 この間は重くて余裕がなかったけど……。  本を返すときにはね。  でも確か、若葉が綺麗だったような……。 女 若葉?  どこの? 男 図書館までの並木道。  バス通りの裏の。  一緒に返しに行った……。 女 ああ……。 男 いや、よかったら、だけどね。  もし……。 女 いいね。  若葉。  歩きたいわ。  並木道。    晴れ間から覗く日差しが眩しい。 女 あ、もしかしてやけちゃうかな? 男 やける?  誰が? 女 え。  肌が。 男 ああ……。    二人、無言のまま遠くを眺めている。         ‐了‐